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野鳥

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年12月20日(土)20時14分13秒
   また暖かく、雪が融けてしまいました。この時期には根雪があり、時には雪が降って除雪機を出動させているのですが、その気配が見えません。この間は、朝の最低が-10度以下になったのですがそれが続かず、これも地球温暖化の影響なのでしょうか。でも、寒いことには変わりはないのですが。

 さて、雪が降り始める頃には、我家の庭の餌台にヒマワリの種や豚の脂身を野鳥達に提供します。ヒマワリの種は主にシジュウカラ、ゴジュウカラなどのカラ類の、豚の脂身はアカゲラなどのキツツキ類の餌になります。他の種類の鳥達も来て賑やかになりますが、食べ尽くすと現金なもので、ぱたっと来なくなります。また、ヒマワリの種を出すと数分後には鳥達が群がってきます。よく見ていますね。

 時には、カケス、ヒヨドリ、ウソ、シメなどが餌台に来ますが、これらはカラ類より大きく、またヒマワリの種を良く食べます。これらは餌台をしっかり占領し満足するまで動きません。カラ類は、これらの目をかすめるようにヒマワリの種を取っていきます。カラ類の食べ方は、餌台に留まらず、一つくわえては気に入った所で食べているのです。
 こんな時は、かわいそうですが、窓を開けて追い払ったりします。ヒマワリの種はそこそこの値段ですので、ふんだんにという訳にはいきません。豚の脂身は安いので、無くなればすぐに補充してやります。

 こんな風景が家の中から数メートル先で見られます。今回は、アカゲラの豚の脂身を食べている写真を載せます。キツツキ類は、アカゲラ、コアカゲラ、コゲラの3種類。これにクマゲラが来てくれればと期待していますが、まだ見ていません。クマゲラのドラミングが聞こえているのですが、幻の鳥です。

 街中では群れているスズメを見られるのですが、この地にはスズメが不思議と見られません。なぜか分かりませんが、それに替わるのがカラ類なのです。
 このように野鳥達が訪れてくれますがそれは餌がある時、しかし回りでは木々の間をさえずりながら飛び交っています。
 
 

雪景色

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年12月12日(金)22時05分24秒
   このところ暖かい日が続いて、雪は降ってもすぐに融けてしまう状況でした。しかし昨日の昼頃から夜間にかけてちょっと重い雪でしたが降って、今朝は雪景色となりました。明け方は快晴で冷え込み、重い雪が木々に凍り付いて樹氷ができたような風景となり、朝日に輝いて冬らしくなりました。この雪の白と快晴の空の青が、素敵なコントラストを見せてくれます。
 本来の樹氷は、明け方に-20度近くまで冷え込んで空気中の水分が凍りついて、細かい雪というか氷を木々に砂糖をまぶしたような状況になったものと言ったほうが良いでしょう。これは川のそばとか水分の多い所に顕著に見られます。

 こんな風景も、この北海道の田舎暮らしでしか見られないものでしょう。道東地方は道央や道南(札幌、小樽、函館など)と違って、雪は少なく寒さは厳しく、しかし晴れが多いという気候です。北海道と言うと雪にうずもれた風景が一般的でしょうが、道東地方はちょっと違うので、私がこの地域を移住先として選んだ理由の一つです。

 寒さへの対応は、家の中はまったく問題ではなく、東京の我家よりずっと暖かく快適です。そしてゆったりとした広い家と敷地、地域的な利便性はありませんが、のんびりとした田舎暮らしを楽しめます。

 このまま冷え込みが続けばこの雪が根雪となり、本格的な雪景色となりこれが来年4月頃まで続きます。こんな雪景色の写真を撮りました。
 

野鳥(水鳥)

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年11月16日(日)11時31分8秒
   11月も半ばとなり、回りは完全に冬支度の状況。夏にあれほど茂っていた木々の葉はすっかり落ちて、残っているのは、アカマツやトドマツの常緑樹のみ、遠くも見通せるようになった。我家の池も寒い日は氷が張るようになり、来月あたりになると結氷して融けなくなる。そんな池にマガモの群が訪れ、結氷してしまう前に盛んに餌をついばんでいる。

 マガモは古来から狩猟鳥として、またアヒルとの掛けあわせでアイガモが生まれ農業などでおなじみの水鳥だ。夏は寒冷地に、冬は温帯地に渡ってくるようだが、北海道には年中いる留鳥もいるようだ。我家の池では6月頃に雛を孵しており、ここ4年ほど毎年雛が巣立っている。
 マガモのオスは頭が暗緑色であるのが特徴で、光線の具合によってはビロードのように輝いて見える。またメスはごく普通の茶褐色であるが、羽の一部には紺色が見え、これも光線の具合により輝く紺色となる。
 その他、コガモという、一回り小さいカモも一緒に群れている。このコガモのオスは頭が濃い茶色で、メスの羽の一部は緑色であり、これも深くみごとな色である。

 自然の中の色、木々や動物達の色など、人間はそれらに憧れ、絵画や服装や飾りなどに再現しているが、現実にはその一部を表しているにすぎない。自然の中でその微妙な変化を見ながら楽しむのが最高だ。

 この2種類がおなじみの水鳥であるが、池が結氷してしまうどこかに移動してしまう。多分、屈斜路湖の結氷していない部分で生活しているのであろう。屈斜路湖は湖岸付近に温泉が湧出している所があり、そこは結氷していない。

 このマガモ、人に慣れやすいとも聞くので、これらを餌付けしようと目論んだが、近づけばすぐに飛び立ってしまい、やはり野生の鳥達だとがっかりしている。野生の動物達には餌付けなどをあまり考えずにそのまま観察するのが良いようだ。

 写真はそのマガモ達、コガモを含めると20羽近くなるようだ。なお、我家の池は敷地の傍らを流れる小さな沢を堰を造りせき止めて池としたものだ。
 

紅葉その2

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年10月18日(土)21時20分41秒
   写真の2枚目です。紅葉がみごとです。  

紅葉

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年10月18日(土)21時16分28秒
   弟子屈町の紅葉の名所のひとつ、屈斜路湖畔の紅葉を紹介します。弟子屈町は、面積では東京都23区より広く、その名所もいろいろあります。私の住む美留和もその一つですが、その規模や、紅葉の色の美しさではこの屈斜路湖畔が一番と言っても良いかもしれません。また紅葉の始まる時期も多少の差があり、早いところは硫黄山の山麓で、すでに峠をこえています。回りの山にも紅葉がみごとな場所はありますが、手軽に見られる場所ともいえません。屈斜路湖畔は道路沿いにみごとな紅葉が続くのです。

 紅葉といっても、紅葉と黄葉と2種類が基本ですね。目立つ紅葉はカエデ類が中心のようですが、ヤマウルシやヤマブドウなどいろいろあるようです。残念ながら、紅葉する樹種がわかるのはこの程度です。黄葉のほうは、シラカバ、ニレ類、クルミ、ミズナラなどさまざま、これもこの程度しかわかりません。
 紅葉し黄葉したあとは落葉しスケルトンとなり、厳しい長い冬に立ち向かっていくのです。

 ともかく、沢山の樹種の葉がなんらかの変化をするのですが、変化がないのはエゾマツ、トドマツ、イチイの類の常緑樹でしょうか。カラマツも北海道には多いのですが、これは黄葉し落葉します。

 この紅、黄、緑さらには茶、そして紅と黄のグラデーションなど、これらの渾然一体となった所謂”紅葉”、これは自然が創造した芸術です。人間はこれらを見て感動し絵を描いたり写真を撮ったりするのですが、結局その一部を切り出したにすぎません。やはり、全体を見てその素晴らしさを堪能すべきでしょう。

 私もその一部を写真に撮ってここに紹介しますが、ぜひこちらに見えて全体を楽しんでください。写真は2枚、道路沿いとその紅葉部分を撮ったものです。
 

野鳥

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年10月12日(日)18時19分2秒
   また野鳥の話題になります。この道東の代表的な野鳥と言えば、いろいろな野鳥がいますが、丹頂鶴でしょうか。国の特別天然記念物で、一時は絶滅が心配されたようですが、現在は繁殖が進み結構見かけるようになりました。

 今日、この町の南の方に出かけた時に、なんと20羽の丹頂鶴を見かけました。時々つがいの丹頂鶴を見かけたのですが、20羽も見たのは初めてです。この付近では丹頂鶴の繁殖地は釧路湿原で、釧路湿原に近いとなりの鶴居村では冬には餌付けをして保護などをしています。弟子屈町はちょっと離れているので、見かけることは多くはないのです。
 かなりの数の丹頂鶴が群れて遊んでいる様子はまさに”鶴の舞”、優雅な姿です。夏は湿原の奥の方に子育てのためにばらばらとなり見かけることは少なくなります。冬が近づいているので群れて、人里の近くに出るようになったのでしょう。

 丹頂鶴のほかには、白鳥が屈斜路湖に冬になると飛来し越冬します。屈斜路湖はほとんど湖面が凍結してしまうのですが、一部では湖岸に温泉が湧いており水面が出ています。その場所に白鳥が越冬しているのです。
 白鳥も丹頂鶴も大きな野鳥です。丹頂鶴は人が近づけばすぐに飛び立ってしまいますが、白鳥は結構人慣れしていて餌をねだるようなことがあります。基本的には野鳥ですから、このようなことは一部の場所のみで見られることです。
 野鳥や動物(キタキツネなど)には、餌をやったりすることはいけないことなのですが、ついつい珍しく可愛いものでやってしまいます。自然界に生きている生物は自分で餌をとれないものは生存できないのが当たり前、人間が餌をやれば簡単に餌を取ることができ、結局自然界の厳しさに適応できなくなります。

 私も冬には小鳥達のためにヒマワリの種や豚の脂身などやっています。しかし春から秋にかけては餌があるのでこれらをやることはしません。沢山餌をやるのではなく、ちいさな動物達にのみ、冬のみと心がけいます。でも、餌をついばむ小鳥達の姿は可愛いものです。都会地とは違い、自然界の厳しさやその素晴らしさを楽しむことがこの地ではできます。

 そうそう、我家の庭には井戸がありそこから水が自噴しています。たまたまその流量を測る機会がありその結果をみたところ、おおよそですが1日100トンの水温8度の綺麗な水が出ているのです。
 世界的に水の確保が大きな課題となっているこの時期に、こんな贅沢なことが出来るのか、自然からの恵みに感謝している今日この頃です。

 今は紅葉の時期です、次回は素晴らしい紅葉の写真を載せたいと考えています。今回は丹頂鶴の写真です。
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(35)~モーツアルト後、ベートーベンが継承し、ブラームス、シューマンへ

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年10月 6日(月)07時01分7秒
編集済
   35回目でモーツアルトのピアノ協奏曲の系譜は最終回である。モーツアルトの享年35歳に合わせた。
 モーツアルト亡き後、ピアノ協奏曲の偉大な文化遺産を継承していったはベートーヴェンである。ベートーヴェンはモーツアルトよりも14歳年下でボンで生活していたが、1792年11月ウィーンにやってきた。かつて1787年5月に2週間ほど、ベートーヴェンがウィーン滞在したとき、モーツアルトとベートーヴェンがウィーンで会ったのであろうか。古い本や絵画には如何にも2人が会って、ベートーヴェンがピアノを弾くのを、モーツアルトが聞いたり話したりの逸話になっているが、現在の本では確実に会ったという記録が無いとしている。面識も紹介者もいないので、たぶん会わなかったであろう。しかしモーツアルトの演奏は聴いたであろうし、楽譜は入手していたであろう。モーツアルトの完成された造形とどこまでも美しく憂愁を帯びたピアノ協奏曲を聴いて、ベートーヴェンにとっては胸に衝撃を受けたことであろう。きっと将来この分野で傑作を書くと誓ったに違いない。
 彼はモーツアルトについては語っていない。しかし最高のカデンツアをK466の20番に造っている。くだらないピアニストが、さも自分が最高の演奏を出来るかのように、モーツアルトをベチャクチャ語りたがるのと比べると、月とすっぽんである。芸術家よ、語るなかれ、創造したまえ。

1、モーツアルト以後、ピアノ協奏曲の最初の傑作は、ベートーヴェンの第2協奏曲であった。名ピアニストで聞いてご覧、兎にも角にもリリカルでピアニスティックで美しい

 ベートーヴェンは推敲の人である。自意識も強く情熱に燃えている彼は、下手なピアノ協奏曲は出せなかったであろう。若くて名声も無いからと言って、駄作では恥ずかしかろう。彼はピアノ協奏曲の最初の作品は1784年作曲した習作で、当時出版していない。今日,WoO4 変ホ長調で、普通は聞けないし録音もほとんど無いし、習作程度なのか分らない。それから、長い時間が掛かったが、ベートーヴェンは2曲のピアノ協奏曲を立て続けに作曲し、出版して彼の独奏ピアノで初演もしている。

ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 完成・初演1795年 出版1801年

      第1番 ハ長調 完成・初演1798年 出版1801年(最初に出版)

 習作から構想するまでに10年の歳月を要したのである。第2番は、ハイドンというよりもモーツアルトの影響が色濃く反映している。モーツアルトを聞いているような錯覚であると、思えないことも無い。しかしベートーヴェンの若々しくみずみずしい美しさと力感と躍動感がみなぎっていて、併せて優美な雅な気分もそこはかとなく立ち込めた傑作である。
 交響曲の世界でベートーベン亡き後の継承の故事として、名指揮者ハンス・フォン・ビューローは、ブラームスの第1シンフォニーを「これこそ第10だ!」と激賞した。
ピアノ協奏曲の世界でモーツアルト亡き後の継承を文字って、音楽好きの小生なら、ベートーヴェンの第2協奏曲を「これこそ第28だ!」とほめたたえよう。語呂があまりよくないが、それは、モーツアルトが如何にたくさんのピアノ協奏曲を創作したかを物語るのである。
 1970.71年に録音されたグルダ=ホルストシュタイン=ウィーンフィルの名盤で聞いてみた。曲が躍動し目くるめくように迫ってくるのである。
ベートーヴェンが、モーツアルトの最期の協奏曲と同じ調性 変ロ長調をとっているのは偶然でなかろう。当然、27番を読み、自分で弾いたであろう。第2ピアノ協奏曲は、27番の協奏曲と眼に見えない糸で繋がっているのである。その後に作曲をした第1ピアノ協奏曲はずっとベートーヴェン的で広壮にして力強い表現を目指している。

2、モーツアルトのピアノ協奏曲24番、25番と云い、ベートーヴェンそして、シューマン、ブラームスのピアノ協奏曲は、ピアノとオーケストラの交響曲風合奏を理想的に表現したものだろう

 イタリア語のconcertoとは,協奏的な合奏という意味である。それがロマン派になって、交響曲風に発展完成していった。しかしその原動力は、400年のコンチェルトの歴史で、何といっても、モーツアルトであろう。

シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 作曲1841~45年 演奏アルゲリッチ=ロストロポービッチ=ワシントンナショナル 1978LP
 幻想的でブリリアントで叙情的でピアノ協奏曲の女王というに相応しい。とりわけ1楽章の最後のカデンツアの深い憂愁の曲想は、シューマンでないと書けない傑作中の傑作である。

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作曲1854~58 演奏ギレリス=ヨッフム=ベルリンフィル 1972LP
 ニ短調のほの暗い情熱的悲劇的で豪壮な曲想。モーツアルトのニ短調、20番の協奏曲が源流であろう。曲の陰鬱なところはシューマンのライン川投身自殺やクララ・シューマンへの想いが見え隠れする。

ブラームス:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作曲1878~81 演奏ツィンマーマン=バーンスタイン=ウィーンフィル 1984LP
 うって変わって、底光りするリリカルで自然的でイタリア的で陽光にあたる思いがする協奏曲。イタリア旅行・ベルチャッハ避暑・ヴェルター湖畔の美しい自然が反映されている。しかし、聴いてみるとモーツアルトが出てくるのである。調性も同じ第27番の無邪気な天国の子供たちが、無心に踊る春の歌声である。モーツアルトの3楽章の楽想が、ブラームスの第2コンチェルト第4楽章アレグレット・グラチオーソに表れているではないか。ブラームスにしては軽いロンドで軽快な明るい旋律であるけれども、どこかに憧れが、憂いが、哀しみが漂っている。ブラームスは、モーツアルトの20番のカデンツアも作曲している。彼は、モーツアルトのように美しく作曲することは出来ないと、回想している。どうしてどうして、なんとも美しいピアノ協奏曲第2番であって、ブラームス一流の謙遜。モーツアルト特有の、ときたま見せる憂愁の涙と美しい叙情が、いたるところに漂っているピアノ協奏曲の名曲なのである。天国でミューズの神に佇むモーツアルトも、ベートーベンやブラームスやシューマンのコンチェルトの名作を聴いて、さぞ喜んでいることだろう。
(了)
 

野の花

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年10月 5日(日)15時29分3秒
   わが町、弟子屈町では阿寒国立公園が大きな面積を占めています。町にある摩周湖、屈斜路湖は阿寒湖とともにこの公園を形作っていますが、どういう訳か、阿寒国立公園と言う名前になっています。我家もこの公園内にあります。国立公園ですから、場所によってはいろいろ制約が多く、それこそ草木1本たりとも切ることも動かすこともならず、です。自然をそのまま後世に伝えていこう、ということでしょう。
 名前は、阿寒・屈斜路・摩周国立公園と言うほうが適切なのではと考えます。

 幸い我家の周りはそれほどうるさくなく、適当に野の花などを採ってきて庭に植えたりしています。だいたい野の花は強いのですが、生存競争が激しく、時には雑草や他の花などに負けてしまうこともあり、自然界の競争の実態を認識させられることがあります。
 人間が改良して鮮やかで綺麗な花が沢山でていますが、自然の中では、これらはたぶん負けてしまうでしょう。自然界では、地味で小ぶりな花が多いのではないでしょうか。余計なものをそぎ落としているのでしょう。もちろん、南と北の地域では異なるでしょうが。

 自然の中の野の花を見ていると、我々人間は人工的な良い環境に慣れてしまい、だんだん弱くなっているのではと心配になります。強いものが生き残るということが、自然界では徹底されていますね。

 そろそろこの地も紅葉の季節、みごとな紅葉を見せてくれます。だから国立公園でもあるのでしょう。近くの硫黄山、これは活火山ですが、その山麓は早く紅葉が始まります。我家の回りも黄色くなりつつありますが、赤や黄色などの彩りがそれほどではありません。少し時間を置き、屈斜路湖周辺で同様な見事な紅葉が見られるようになります。今月半ばから末にかけてが見所でしょう。
 そして、それが終わると長い厳しい冬に突入します。

 そろそろ花も少なくなっています。今回は、青紫の2cmぐらいの花、名前がわかりません、の写真を添えます。

 それから、小山君メールありがとうございます、同期会は残念ながら欠席です。
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(34)~1791年、死がモーツアルトを訪れた。享年35歳の急死~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月29日(月)17時01分29秒
編集済
   このシリーズは今回と次の35回で終わる。
1791年12月5日、ベットに倒れ臥して2週間後突然、モーツアルトに死が訪れた。35歳の短い生涯であった。このエッセイもモーツアルトの享年に準じて35回で閉じる。

 須藤君から立て続けに、白い野の花と野鳥の美しい写真を送って来てくれた。ありがとう。
彼は、夫妻で音楽会に出かけ、子供がオペラの演出の仕事をし、友をコンサートに誘う。夫婦で窓にぶつかった野鳥を気遣い、クラシックに深い理解を示す教養人であり、誠に魅力溢れるパーソナリティである。野に咲く清楚な花と空に飛び立つ野鳥は森羅万象の一部であり、モーツアルトの透明にして憂愁の音楽に相応しい。願わくば、摩周湖か屈斜路湖の透明な湖水と秋の透徹した快晴の空の風景を送ってもらいたい。それらがモーツアルトにふさわしい。

1、モーツアルトは死ぬ直前まで作曲し続け、作曲中のレクイエムを歌い、魔笛のアリアを口ずさんでいた。
 彼はいう「私は作曲していたほうが休んでいる時よりも疲れないので、仕事を続けます」と。モーツアルトは死の直前まで作曲を続け、これも半端なものではなく、名作を作り続けた。”魔笛”、”皇帝ティートの慈悲”、”クラリネット協奏曲”、フリーメイソンのために”小カンタータ われらが喜びを高らかに告げよ”等々。そして未完に終わった”レクイエム”・・・。
 モーツアルトは、寿命を、運命を、死の予感を知っており、なおかつ生命がこんなに楽しいのにという生きたい希望も大いに持っていた。そしてなんとしても、レクイエムを未完のままにしておくわけには出来ないと考えていた。妻やジェスマイヤーにレクイエムを未完のままにしないでと、遺言めいたことも言ったという。

2、モーツアルトはベットに臥して、わずか2週間で急死した。
 死因は、あれやこれやと言われている。毒殺の噂もある。しかし本当のことは分らない。
彼は2週間苦しみ続けた。失神、嘔吐、水腫、頭痛、幻覚、妄想、体重減少、衰弱、発疹、脳膜炎、腎不全、ロイマチ性炎症熱、中毒・・・あらゆる苦しみに襲われつつ七転八倒していた。水銀中毒つまり毒殺とて、モーツアルトの多額の借金と女性問題、不倫やら仕事上の争いやら諸々の情況から、いろいろと伝説を呼んだ。
 モーツアルトがどのようであれ、35歳で昇天したのは事実である。しかしどのような死に方であれ、シベリウスが書いているように、後世、彼の名曲を演奏できる、名曲を聴けることがどんなに素晴らしいことか。シベリウス曰く「たとえ夭折しても、モーツアルトがそれまであんなに澤山作曲できたということはなんと幸福なことだろう」と。
 ある日旅人は、モーツアルトの天国の歌声を想い出した。小ミサ曲、戴冠ミサ曲、そして、アヴェ・ヴェルム・コルプスを口ずさんだ。丘の上から眺めた遠くの山並みや、空を流れる雲のたたずまいや、山麓や道端で見かける草むらの可憐な花々は、モーツアルトの音楽と一つになって旅の心を慰めてくれた。

ーーーモーツアルトは死の年1791年に、一方では、清楚で天国的なピアノ協奏曲27番を作曲し、他方では、現世的な救いがたい絶望と苦しみを赤裸々に告白したレクイエムを造った。彼は、天国を憧れ清浄な境地に達観したと同時に、病魔の痛みと死への恐怖と永遠の深淵に戦慄したに違いない。しかしやがて訪れた死が、モーツアルトの恐怖と苦しみを永遠に取去っていった。モーツアルトのデスマスクが二つ造られたが、一つは妻が誤って壊してしまい、後の1つは行方が分らない。しかし彼の死顔は安らかであったろう。
(了)
 

野鳥

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年 9月29日(月)12時20分49秒
   こちらは快晴の天気ですが、東京は台風が接近してくるようで雨と聞いています。同じ日本、天気の様子が大変異なっているようですね。昨日の朝は氷が張ったようで、これで紅葉がグッと促進されると思います。

 さて、今朝のこと、窓にドンと何かぶつかった音がして、また鳥がガラスにぶつかったかなと外を見ると、案の定小鳥がジッとうずくまっていて動いていない模様。小さな7cmぐらいの可愛い小鳥でした。そばに寄ってみても動かず、そっと掴んで手の上に乗せてよく見れば、まだ意識はある模様。さあ、どうしようと家内と二人であたふたしたのですが、このままほっておいたのではどうなるかわからないので、風も冷たいから、小さな籠に入れ日の当たる所に置いて様子を見ることとしました。
 10分ぐらいして様子を見たところ、その小鳥はいなくなっていました。元気になって飛び立ったようで、ほっとしました。

 このような小鳥の衝突は、時々あります。大きな鳥ではヒヨドリ、小さな鳥ではカラ類など、いろいろです。結構命をなくす鳥もあり可哀想なのですが、良い防止策は見当たらないようです。ガラス窓、外の風景が反射していると、気がつかないのでしょう。

 野の花から野鳥と、話題がガラッと変わりました。こんな出来事もあったので、急遽投稿しました。写真は、手のひらに乗せた可愛い野鳥です。
 

野の花

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年 9月28日(日)12時27分13秒
   安井君の大変な褒め言葉、穴に入りたい気分です。付属時代は、心の清純などころではなく、個性豊かな諸君の中で目立たぬフツーの高校生に過ぎなかったのです。
 それよりも、安井君がこんなにすごいクラシックファンとは、付属時代にはそんな記憶はまったくなかったのです。私自身もクラシックに興味を持つような余裕がなかったのでしょう。

 この美留和は、弟子屈町の真ん中あたりで、摩周湖と屈斜路湖の間に位置するところで水と温泉の豊かな地です。水は摩周湖の伏流水と言われており、極めて綺麗な水ですが、美味しいかと言われると、答えは難しいです。そもそも美味しい水なるもの、経験と記憶が定かではないのです。最近の東京の水も決して捨てたものでは無いような気がします。

 水については、様々な面から注目されていますね。食料自給率の向上が叫ばれていますが、食糧生産を国内で増加させれば、それだけ水の需要が増加します。が、今の日本では、どの程度の増加にもよりますが、水の供給が追い付かないと言われています。
 北海道の食料自給率は、200%と言われており、食糧供給地として期待されるのですが、水が無ければ話しにならないのです。幸い、弟子屈町は道東方面の水源地として戦略的位置づけにあり、このアドヴァンテージは有効に活用しなければと思うのですが、どうもそんな思いは周りに理解されないようです。老人の戯言でしょうか。

 水はほっておいても手に入るものではなく、雨の循環の中で、摩周湖と屈斜路湖という水瓶と森と言うグリーンダムがあるからこそで、その管理が適切になされていることが必要です。特に森の管理、これが重要で、豊かな森があってこそ清冽な豊かな水が得られるのです。

 最近はこんなことを考え、森の再生などと言う活動に関心を持っています。私はNPO「ましゅうの里」の事務局長をしておりますが、この法人の重要な活動と捉え、賛同を得られるよう努力しています。

 今日の題名とは関係ない事を述べてしまいましたが、良い環境があるからこそ、様々な野の花も咲いてくれるのでしょう。
 今日は朝から快晴で、今朝は氷が張っていました。今季初めての氷です。
 また、写真を添付します。1cmほどのマンテマより小さな花です。名前は忘れました。
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(33)~好きなピアノ協奏曲24番を聴きに行った。~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月27日(土)21時31分45秒
編集済
   アマチュアのモーツアルト・チクルスの演奏会に出かけた。その中に、好きな曲・ピアノ協奏曲24番があった。アマチュアの30人ぐらいの管弦楽団と、プロは、N響に在籍していた83才の指揮者・福田信一と若い女流ピアニスト加笠里奈だけで、無料の定期演奏会。管弦楽の状態は弦5部の和声がまず合っていないで調子はずれ。だけれども、ピアニストは一生懸命に24番を弾いていた。誰のカデンツアかわからないが、力感みなぎる憂愁でヴィルティオーゾ風の即興を聞かせてもらったし、好きな24番が聞けただけでも良かったと思う。モーツアルト好きではないと皮肉を言って始めたエッセイのシリーズも終わりに近づいて、好きでたまらないモーツアルトの曲を告げておこう。

○好きでたまらないモーツアルトの曲幾つか・・・好きな訳を書いた

1)ピアノソナタ 11番 K331 特に第1楽章の第5変奏アダージョ
・・・好きな主題テーマである。嘆きの歌の寂しさ、哀しさ、透明な無常感とピアノの深々とした表現力

2)ピアノ協奏曲 24番 3楽章の変奏のテーマ
・・・哀しみというか駆け抜ける憂愁のテーマがたまらない。簡素で装飾が少なくて単純で完成された造形。ロマン派はもっと華麗にもっとおおげさに自己表現するが、モーツアルトは抑制されていて過不足のない完璧な美しさ。深い翳りを帯びた悲愴的な美しいテーマが名人芸に変奏していく。

3)ピアノ協奏曲 20番 1楽章全部
・・・暗い情感溢れる悲壮感溢れる曲想とテーマと劇的進行が好きだ。ベートーベンのカデンツアも聞き所。

4)交響曲38番 プラハ 1楽章の転調する優しく明朗でいて憂愁を帯びた主題
・・・1楽章の晴朗な進行とあわせて、駆け抜けながら無常感溢れる転調の妙味。第1楽章の優美なカンタービレのテーマは、その後ベートーベン始め、いろいろな曲に使われることになる。

5)協奏交響曲 K297b 1楽章の愉快な美しい木管の進行と響きと晴朗な主題
・・・晴朗にしてユーモア溢れる木管の協奏がいい。少し憂いが漂って飽きない。

6)レクイエム K626 最初の楽章レクイエム、最後の方の楽章サンクトス、ベネディクトス、アニュースデエイなど
・・・激しく慟哭する主題と諦観と無常感あふれる曲想。ドラマティックで清楚で哀しみを露にするところが普通のモーツアルトでなく、最期がにじみ出るようで堪らない。

7)交響曲41番 ジュピター 全楽章良いがとくに2楽章と最終楽章
・・・深い哀しみの2楽章とどこまでも晴朗でアポロ的なフーガを持つ4楽章がたまらない。テーマが簡素で単純なのに深々とした情感をたたえている。

8)ポストホルンセレナードK320 晴朗で弾むような曲想が管弦楽の最高峰
・・・1楽章全部に流れる生き生きとしたリズムとカンタービレ

9)ピアノソナタK332 全編の溢れるような歌とリズム
・・・1楽章の歌はモーツアルト特有の魅力であり、ハイドンにはない。

10)フルートとハープのための協奏曲 K299 全編が華麗にカンタービレする
・・・絶妙な協奏とカンタービレとフルート→尺八、ハープ→琴の東洋に通じるわびとさび
(了)
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト(1756-1791)、ピアノ協奏曲の系譜(32)最後のピアノ協奏曲27番~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月27日(土)09時59分3秒
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   とうとう27番まで来た。最後のピアノ協奏曲であり、モーツアルト死の年の曲だから白鳥の歌といわれる。そしてモーツアルトの1791年の曲にしかみられない、いままでモーツアルトが一度も見せたことがない世界のもので、諦観と透明さをもって作曲されている。魔笛、クラリネット協奏曲、アヴェ・ヴェルム・コルプスの名作はもとより小さな歌曲やダンス曲に至るまで、一様に死の影を落とす澄明な深渕である。
 そのころモーツアルトは1月に書き上げたこの曲を、自分の予約演奏会は買う人がなくて開けず、他人のクラリネット奏者の3月の演奏会にやっと、協奏曲27番を自らソリストとなって演奏した。モーツアルト生涯最後の出演となったその日の、モーツアルトが弾く協奏曲の異様な美しさに、当時の聴衆は無理解であったろう。
 貧窮のどん底に喘いでたとはいえ、モーツアルトはプラハへ旅行したり作曲に忙殺されており、死ぬことなんか考えていなかった。だが明らかにこの曲は、モーツアルトが無意識に書いた白鳥の歌であり、この世の訣別の歌であり、彼岸からの音楽なのである。
 ある種の天才芸術家はどうして最期までの残された時間に、自分の死を予告するような作品を作るのだろうか。ベートーベンしかり、シューベルトしかり、ブラームスしかり、そしてブルックナー、マーラーも・・・。

ピアノ協奏曲 変ロ長調 K595 1788頃~1791.1.5 ウィーンで完成 初演は人気凋落でモーツアルトの予約演奏会がなく、1791.3ヨーゼフ・ベーアの演奏会に客演して演奏。

 このピアノ協奏曲の異様なまでの透徹した美しさと明朗さと清らかさは、いったいなんと形容して良いか分らない。すべての楽章が、怒号したり泣きわめいたり陽気になったり騒ぎ立てたりしないで、淡々として語りかけ、すべては秋の晴れた空のように透明で無常感と哀しみをたたえている。2楽章など時たま愛に満ちていて優しい心で包んでくれたあと、滲み出るようなその悲しみは一体なんであろう。一方、終楽章のカデンツア二つに、ベートーベンとモーツアルトが入り混じるような疾風怒濤にして透徹した美しさがある。さらに、自作の子供のための歌「春への憧れ」K596を、第3楽章第1テーマを使って、努めて軽く明るく振舞おうとするモーツアルトがいる。生活が苦しく借金苦に喘ぐモーツアルトの天真爛漫な歌がある。しかし聞く者は、微笑むことすら出来ないのである。
(参考引用:ロンドンレコード:アシュケナージのモーツアルト:ピアノ協奏曲23&27番の解説、石井 宏 著)

ーーー古今東西のピアノ協奏曲の名曲中の名曲であるから、名盤が多い、11種類聞いたのであるが、気が遠くなる名演奏から、偽モーツアルトではないかという戯け演奏まで、いろいろあった。

○名演奏の数々(略記号 VPO=ウィーンフィルハーモニカー)

1、バックハウス=ベーム指揮VPO 1955CD
 この曲の故郷であり古典的名演奏であり録音も良い。ベーゼンドルファーの硬質にして透明ないぶし銀のような音色と、端正にして枯淡にしてますらおの凛とした風格をもつバックハウスのピアノが天衣無縫。

2、グルダ=アバードVPO 1975 LP
 一番個性的でオーソドックスでモーツアルトを堪能できる。ベーゼンドルファーインペリアルのきりりとしまった輪郭のある透明なピアノがエネルギー感もあってよい。管弦楽が柔らかく木管群がチャーミングの限りでピアノと対話するのが素晴らしい。3つのカデンツアがまるでベートーベンのように雄弁で圧倒される。いたずらに、彼岸の曲想を暗くして弾かないのがよい。

3、ゼルキン=アバード=ロンドン交響楽団 1983 CD
 管弦楽の美しい力強い陰影に富むバックがよい。ゼルキンの無骨さと不器用を乗り越えて、透明で底光りする高音と恐るべき重低音のピアノの振幅は強烈である。27番の曲想の深さを実感する。80歳の老成の天衣無縫の芸術。

4、ハスキル=フリチャイ=バイエルン国立オーケストラ 1957CD
 ハスキルの例の水晶のような透明にして珠を転がすような美音はモーツアルトにぴったりである。生々しく歯切れがよく明確なピアノで情感があふれ出る。速いテンポで駆け抜ける哀しみのモーツアルト。

5、カザドジュ=セル=コロンビア 1962LP
 透明で歯切れの良い管弦楽と指揮がよい。清楚にして端正、透明にして洒落ているピアノも素晴らしい。フランス人カザドジュのモーツアルトに対する畏敬はただならぬものがある。僕はロベルト・カザドジュを、モーツアルト演奏の第2の故郷にしたい位である。かつてモーツアルトにはフランスの貴族が冷淡にあしらったのを思い出す。カデンツアはモーツアルトのソナタを聞いてるような充実感。変に暗くしたり重くしたりしないで、ありのままのモーツアルトの曲想を単刀直入に表現しえた稀に見る演奏だ。

6、ギレリス=ベーム=VPO 1973CD
 ギレリスの硬質の水晶のような鋼鉄の打鍵に出会えた。透徹した水晶のようなタッチはどうしてスタインウェイから出せるのだろう。美しさと哀しみと優美さと悲嘆とそれらをインティメイトに心から自然体に表出する。指揮、ピアノ、ウィーンフィルの美しさと実力は大変なものだ。

7、ハイドシェック=ヴァンデルノート=パリ音楽院 1962LP
 古いレコードで期待しなかったがピアノの音色の美しさと芯の強さに飛び上がる。若き26歳のピアニストの一里塚。センスのよさ、透明で強靭なピアノ、エスプリとしゃれと余裕を持って彼岸の協奏曲をひたすら弾く。3楽章あたりが、やや技巧面でやりすぎかなと言うところもあるが、全体の印象はモーツアルトの美しい憂愁の協奏曲をかなり深く聞かせるのである。

8、カーゾン=ブリテン=イギリス室内 1970LP
 管弦楽のしっかりした美しい力感みなぎる迫力に、ピアノは水晶のような透明な悟りきった表情で孤高のように協奏する。そのコントラスト、哀しみと美しさとデリケートさと疾風怒濤を秘めながらこの難曲をみごとに纏め上げる。

○人工的で自意識過剰で見え透いた技巧と、曲想をこねくり回して弾く。名声で箔が付いて金持ちになると、こんなくだらないモーツアルトしか弾けないのか。ウィーンの名指揮者エーリッヒ・クライバーの名言「モーツアルトは天衣無縫の境地に入らないと演奏できない」ということが全然分っていない、アホ馬鹿まぬけ戯け奏者どもではないか。

内田=テイト=イギリス室内 1987CD: 技巧と上手さを見せ付ける自意識過剰で、透明感に欠けるピアノ。付け加えると、テンポ、管弦楽団同一、強弱の造形、見え透いた技巧等バレンボイムの真似ではなかろうか。

バレンボイム弾き振り=イギリス室内 1967LP:わざとらしい暗すぎる哀しみ一辺倒で弾こうとする。ピアノの輪郭がこもりがちで、管弦楽が大げさな表情でクレンペラーの真似か。

アシュケナージ弾き振り=フィルハーモニア 1980LP:わざとらしい技巧とただ美しいだけのピアノは、ムード音楽一色で、モーツアルトではなかろう。明暗も翳りも涙も情感も乏しい心無いモーツアルト。アシュケナージは、モーツアルトは無理であるから、おやめなさい。
(了)
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(31)~協奏交響曲K364を聴きにいく~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月24日(水)06時49分15秒
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   アマチュアの演奏会を近所の友人と散歩がてら聞きにいった。アマチュアと言っても、オーケストラが日本女子大学の管弦楽団のOGで、指揮者とソリストはプロである。曲目は弦楽合奏が主体で気持ちよかった。

エルガー:弦楽のためのセレナード 作品20 1892
メンデルスゾーン:弦楽のための交響曲 7番 ニ短調 1822
モーツアルト:協奏交響曲 変ホ長調 K364 1779/80 ザルツブルグ作曲

 聞いた印象は、エルガーは下地はモーツアルトのセレナードのようで心地よく、メンデルスゾーンはバッハのフーガの技法の影響が聞こえてきた。またモーツアルトは、一段と曲想が分厚く豊富で優美な響きを味わった。エキゾティックでモーツアルトの各地の旅行の跡がうかがえるようであった。
 モーツアルトのこの協奏交響曲はヴァイオリンとヴィオラを独奏者としている。2人のソリストは第一バイオリンの前に並んでたって弾くから、弦5部と見事に溶け合いハーモニーが絶妙な響きを醸し出す。モーツアルトが作曲の工夫をしていて、ヴィオラパートだけ変ホ長調でなくニ長調にして楽譜を読みやすく弾きやすくしたこと、さらにヴィオラの調弦を半音上げてヴィオラの響きを明るくしたこと、であった。モーツアルトはソリストのことを気に置いて作曲したようである。

 モーツアルトが協奏交響曲を断片も含めていったい何曲書いたかは分らないが10曲はあるのではないか。ピアノとヴァイオリンのための協奏曲ニ長調(断片)も途中で投げ出している。モーツアルトのピアノ協奏曲の目も眩むような名曲群を考えると、断片や紛失で残ってないのは、かえすがえすも惜しく取り返しが付かない。けれども今日聞けるのは、Vn&Vcのための曲、管楽器のための曲K297b、2つのVnのためのコンチェルトーネK190がある。
 この分野後世になると廃れていった。古今東西の名曲としては、わずかに、ベートーベンがVn,Vc,Pfのための三重協奏曲を、ブラームスがVn&Vcのための二重協奏曲を作ったくらいである。
(了)
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(30)~26番”戴冠式”☆須藤君、”野に咲く美しい花”を有難う~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月23日(火)09時40分10秒
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   須藤君から、摩周湖に近い広大な自宅の庭に咲く可憐な野花を送って来てくれた。ことほど左様に、彼は、心の清純な青年の心を失わない素晴らしい友である。都立時代にどうしてこんな素晴らしい友ともっと付き合っておかなかったのかと、今は悔やんでる次第である。

 モーツアルトの協奏曲を含むアマチュアの演奏会が9月に2回も控えている。Vn&Vaの協奏曲k364と24番ハ短調である。その印象話をする前に、26番戴冠式を聞いたのでそれを書き留めることにした。

 26番戴冠式は昔から40年前から聞いてきた名曲である。旋律はすぐ口笛を吹けるし、曲想が深刻でないし、明快だし、曲想が浅いから素人の僕でもすぐ分ると、若いとき思っていた。でも、よくよく聴いてみると、モーツアルトのすべてを含む、陰影と翳りの深い、大変な名曲なのである。プロも云う「後期の作なのに、深い内容が乏しい、と一段低く見られている。一般の低い評価にもかかわらず、僕はこの曲を好む。以前の曲ハ短調、ハ長調のような重さがなくいかにもモーツアルトらしいからである。内容が薄い曲故に面白く聴かせるには演奏者に遊び心が要求される」と。そう、まさにモーツアルト臭がぷんぷんする名作であるが、指揮者よりもピアニストに因って、名曲にもなり駄作にもなる、演奏家にとって恐ろしい協奏曲なのである。だからか、ニックネイムがついた名曲なのに、実演はめったにないのではなかろうか。ぼくも実演を聴いた記憶がない。

26番 ニ長調 戴冠式Coronation 1788初冬ウィーン 10/15フランクフルトでレオポルドⅡ世の戴冠式記念コンサートでモーツアルトがソリストとしてこの曲を弾いたそうである(曲を聴くのに、標題は全く関係ないとおもう)

1、ピリス=アバード=ウィーンフィル1990 ライブ CD

 ウィーンフィルのピッチの少し高いヴァイオリンが一層華麗で透明で美しい。それにしても、ピアノが管弦楽に引けを取らないどころか堂々と協奏するのに圧倒された。ピリスの透明、粒立ち、打鍵の強さ、歯切れよさは眼を見張る。しかも短調の翳りのある部分になると深々とした哀愁を醸し出して、胸にぐっと来る。管弦楽の間合いと駆け引きの上手さ。軽妙諧謔優美を見せつつ、モーツアルトの荘重哀愁陰影を浮き彫りにする、つい惹きこまれてしまう演奏。カデンツアも華麗にして憂愁の曲想が飽きさせない。カデンツア作曲はウィーンの名ピアニスト、バドーラ・スコダのものを使う謙虚さは、芸術家としてたしなみ風格を持ち素晴らしい。作曲能力や即興性のないのに、内田の如く自慢げにつまらぬカデンツアを聞かされてはモーツアルトの品格を下げるだけ。2楽章のラルゲットの美しい叙情が深いピアニズムに下えられてセンチなムード音楽に陥らないでひたひたと翳りを帯びながら進む。3楽章の有名な行進曲風メロディは、自然体で心から湧き出る様にメゾフォルテの強さで胸のすくような華麗にして美しいピアノであった。

2、カザドジュ=ジョージ・セル=コロンビア CBSソニーレコード 1962

 2流のコロンビアのオーケストラをよくここまで調教したものである。モーツアルトそのものの華麗にして優美にして威厳ある序奏である。序奏だけでない全編踊るような目くるめくような管弦楽のバックにピアニストは幸せな独奏を進める。フランス人だからと言ってなよなよするどころか、ますらおの泰然自若のピアニズム。その品格の高いことに聞きほれたのである。音が余りよくないのでオーディオテクニカのカートリッジに代えた。男女の仲もかくの如し、相性が好く盤の溝を優しくなぞり、優美に鳴ってピアノが生き返る。カデンツアはカザドジュのものだろう、半音階的で陰影にとみ美しくも憂愁に満ちて曲想にぴったり。モーツアルトを聞く喜びを感じさせてくれる貴重なレコード。ジャケットの絵がまた良い。ティチアーノのバッカナーレ。美しい女神たちが男どもと美酒に酔いしれる神話。仏頂面のピアニストの嫌味なプロマイド写真よりずっと趣味が良い。

3、グルダ=アーノンクール=アムステルダムコンセルトヘボー 1983CD

 まことにエネルギッシュにして歯切れの良い壮麗な管弦楽である。ここまで華麗にして美しさを損なわず解像度抜群に録音できたテルディックに拍手。反対に今日多く流布する録音は、フィリップス(内田光子のピアノ)のマイルドなくすんだ録音が多く、劇場の1階の後ろの席の響きの様で、明快さを欠き嫌いな録音である。さてグルダのピアノは、奥の方から聞こえてくる。水晶のように透明で力があり明快であり華麗であり自然であり、モーツアルトの、ふとした翳りと涙も自然に丹精に表現していく。2楽章の、チャーミングで美しいのであるが、憂愁と涙にぬれた装いはさらっとしていたずらに強調せずに表現する。美しい核心のところを見せびらかさず恥らうようにさらっと流すのは、さすが聞き飽きない。長い修練を経てのことだろう。アレグレット3楽章は、壮麗さと軽妙さと諧謔と憂愁が見事同列に同居させ見事に進める手腕は、指揮とピアニストの深い芸のなせる業であろう。

4、内田=ジェフリーテイト=イギリス室内 1987CD

 マイルドにして重低音は伸ばしているから、中庸であるが壮麗な響きがする管弦楽である。ピアノの弾き方はくすんだフェルトをかけた様な、繊細すぎる、生ぬるい音である。ピアノの音がやや大きく管弦楽の前にせり出すような編集は、女性で華奢な音で貧弱だから電気的に強くしたとか奇異な印象をもつ。ピアノが知性と技巧を駆使して、微に入り細に入り面白く聞かせようとする。テンポが遅い分管弦楽がやや重く響きピアノがくすんでマイルドなので透明さにかける。カデンツアも、刊行されてる既存のカデンツアを借りればよいものをどこかの猿真似か、わざとらしいフレーズとメロディと強弱で印象が薄く、管弦楽への引渡しも不自然。思わせぶりに終始して、退屈で、鼻に付いた演奏だと思う。2楽章の可憐な楽章も深い感性がどこへやら。感じていないのだろう、わざとらしいというか、装飾も嫌味に聞こえたり、技巧も見せびらかしにいやらしく思えて聞く気がうせる。3楽章の固唾を呑んで聞入る最初のすばらしいアレグレットの旋律を、内田はフェルトをかけた曇った音で思わせぶりに弾く。あの荘厳なベートーベンの第4ピアノ協奏曲のプロローグのカデンツアも心無いピアノだったが、彼女はなんとセンスがない作為的な弾き方だろう。フレーズのいつものコマ鼠のように動き回る癖と、心が入ってない義務感で弾くようなピアノに、盛り上がりが独り管弦楽だけが頑張るから、なにか寒々としてきて情けなくなる。これが20年前かベストセラーになったのである。ベストセラーなんていっても本と一緒で芸術や格の高さを反映しないのである。テクニックと知識と人真似だけ旺盛で、感性がない心がない天衣無縫がないモーツアルトはぞっとする。音楽評価は高い低い、好き嫌いや嗜好もあるけれど、ステレオ装置で、ピリスのドイツグラモフォン盤と内田のフィリップス盤を注意深く聞き比べるとよい。びっくりするくらいの差があるのである。
(了)
 

ご無沙汰しています

 投稿者:須藤直武  投稿日:2008年 9月21日(日)20時52分11秒
   こんばんは、北海道の須藤です。久方ぶりに投稿します。時々この掲示板を覗いていますが、相変わらず安井君が頑張っているようで、確か2年前ほどにも同じようなことを言ったように記憶しています。

 今年の同期会、残念ながら出席できません。時々上京していますが、タイミングが合わないのです。道東の田舎からの飛行機代、いつも最低の運賃を狙い2ヶ月前に予約し購入します。ローカル空港からの出発で、札幌のように競争が無く安いチケットが少ないのです。

 この地での田舎暮らし、女房と二人で喧嘩しながらも楽しく暮らしています。来月でちょうど4年になり、すっかり落ち着いています。この辺りの生活ぶりは、我々のブログ「美留和の四季」(http://blog.hokkaido-np.co.jp/71166sn/)に書いていますので、お暇な折に覗いてくだされば幸いです。
 このブログは、北海道新聞が移住促進のため道内移住者に投稿を依頼したもので、我々もその一人です。

 さて、安井君の話題はクラシック音楽一筋と言って良く、その豊富なこと、ただただ敬服するのみ、素晴らしいものです。オーディオについても同様、私のように現役時代にAVメーカーにいた者にしてみると、よくここまで研究したものだと感心します。我々もこの地で、初心者レベルでクラシック音楽を楽しんでいます。周りに人は少ないのでオーディオを好きな音量で聞き、近所の友人が音楽会を開催しそれを聞きに行くとか、こんなことをしています。

 美留和の四季の美留和は、この地の地名でアイヌ語からきたものです。美しい水の流れるところ、と言う意味に聞いています。摩周湖の伏流水が湧き出ている水の豊かな地です。近くに硫黄山という活火山がありますから、当然温泉も豊かです。
 道東にあり屈斜路カルデラの中にあるので、冬の寒さは厳しく1年の半分近くは冬で、そのかわり春夏秋が駆け足で様々な変化を見せてくれます。

 まぁ、こんな様子ですが、美留和の四季に詳しく述べています。これからも時々顔を出します。我家の庭に咲く野草の写真を添付します。マンテンと言うもので、2cmほどの小さな花です。
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(29)~第25番ハ長調~ピアノコンチェルト全部を習作から鳥瞰~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月20日(土)13時46分41秒
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   何という重厚で力強くて安定感があるのだろう。ハ長調のせいかもしれない。ニ短調K466の後に21番ハ長調、ハ短調K491の後に25番ハ長調。モーツアルトの癖というよりも、ベートーベンの田園と運命シィンフォニー、そしてワルトシュタインとアパッショナート・ソナタの様に、相反する創作を通して、心のバランスを保ちセラピーしていたと想像するのである。
 それにしても、途方もない創作、充実、旺盛のモーツアルト。信頼すべき詩人にして音楽評論家 吉井亜彦曰く「数の上だけならヴィバルディーが500曲以上の協奏曲を作っているが、世界の協奏曲の名曲を、私心を拝して厳選に厳選しても、モーツアルトが、協奏曲の名曲に占める割合は5分の一以上のものすごさ。これは、モーツアルトが他の大作曲家よりも協奏曲を重んじていた、集中していたという次元の話ではない。モーツアルトの協奏曲の持っている意味の重さ、作品の質の充実さ、今でさえ誇る人気の高さから考えると、モーツアルトの作品というかたちをとって、「協奏曲」という形式の内実がもっとも豊かに結実したのである」と。
 特別すきでもない、知識があるわけでもない僕が、25番ハ長調を聴くと、実り豊かな作品の充実に眼が眩み鳥肌が立ったのである。

協奏曲25番 ハ長調 K503 1786年「フィガロの結婚」のすぐ後にウィーンにて グルダ=アバード=ウィーンフィル、1975レコード(CDより自然な音)
 バレンボイム=クレンペラー=ニューフィルハーモニア、1967CD24ビット化
 内田=ジェフリー・テイト=イングランド・チャンバー・オーケストラ、1988CD

 グルダの演奏は、ウィーンフィルの合奏のすごさと音色の美しさと木管のチャーミングさで魅力第一である。さらにピアノが、恥じらいがある謙虚さで始まるからたまらない。一音一音エネルギーがあり、透明感があり、ますらおの威厳があり、水晶のように芯がある。胸にどーんと来るfffもある。カデンツアがグルダのであるが、高貴にして力感と天に抜けるような爽快感の内に全合奏のオケにつながる。35分の遅いテンポで光るのがアンダンテのピアノの内省。秋の抜けるような晴れた透明な空を眺めていると、思わず微笑の中にモーツアルトの涙と無常感がそこはかとなく漂う。この演奏がそういう想いをさせてくれた。

 25歳のバレンボイムと老齢のクレンペラーが組んだ25番は歴史的な演奏であり、そのスケール感威容と壮麗美しさは奇跡的な仕上がりである。まるでベートーベンの圧倒的な威容の管弦楽が重々しくかつ、躍動的にかつチャーミングの限りを尽くす木管の音色で奏でられる。バレンボイムの透徹したピアノの音色と美しさ。モーツアルトはピアノの個性をいたずらに出しては台無しになるが、バレンボイムは謙虚にして控えめでいて芯は強靭で飛び跳ねるような躍動するピアニズムは驚くべき深さだ。バレンボイムのカデンツアは暗い情熱と憧れを示していて聴き応え十分。2楽章のほかより2分も遅いテンポが深々とした叙情で好ましい。平明で壮大で明朗な曲がしばしば短調に傾き光と影の交錯を微妙に宿している25番。バレンボイムとクレンペラーの魅力は、そうした崇高な翳りと明朗な輝きの交錯を余すことなく表現する。

 内田の演奏では、まずジェフリーテイト指揮イギリス室内の高揚にして力強くて明朗な管弦楽の演奏が良い。共演するピアニストが悪くて調和が取れてない自意識過剰、個性出しすぎのピアニズムなので、飽き飽きして聞く気しなくなる。入りのピアノから作為が感じられ、録音と管弦楽の響きが朗々としつつも、ピアノが何でだろう曇った音色で透明に響かない。心がねじけてたり曇ってたら、いくら上手に手先を技で弾いても、ピアノの響きがそのまま悪く出るのではないかしら。ベートーベンが「荘厳ミサ」の楽譜に、音楽は心がどれほど大事か書いている。彼曰く「心より出で、心に入らんことを」と。名演奏は、心ある人間が曲に感じて心から弾くから、われわれの心に入って響くのである。僕の嗜好や好みを抑えて聴いたのであるが、ピアノは、謙虚さもなければ力強さ、明朗さもない、内田自慢のカデンツアは理屈っぽく浅はかで管弦楽とのつながりバランスも悪い。このピアニストは、5つ6つのコンクール漬けになり、毎日練習練習で技巧のマスターに明け暮れ、人間を磨くのを忘れたのではなかろうか。内田光子は演奏態度の横柄さと知性をひけらかすタチの悪さからも、どうも一番大事な人間の勉強が出来ていないような気がする。
(了)
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(28)~モーツアルトの本質~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月20日(土)10時43分57秒
   モーツアルトの本質・モーツアルトの魅力の源泉は何なんだろう。モーツアルト好きの宇野巧芳に尋ねたのである。

 ”微笑みとはかなさ”が、モーツアルトの魅力の源泉である。
モーツアルトの信条は「音楽はどんな場合にも楽しくなくてはいけない」と言う。そして彼は徹底的に聴衆を楽しませようとする。しかし彼の音楽が単に微笑に装われた楽しさだけで終わるならば、モーツアルトの魅力はこんなに深くないはずである。典雅、優美、繊細、流麗、明朗の限りを尽くした作品の中に、ふと現れる翳り、憂愁、無常、悲哀、涙こそモーツアルトの本質なのである。
 オーストリアの大作曲家で、自然的宇宙的キリスト教的なアントン・ブルックナーに対して、モーツアルトはあくまでも、人間的旅人的愛憎的な作曲家と言うべきだろう。
 モーツアルトの音楽はいくら伝記や手紙や資料を読んでも見えてこないけれど、気持ち良い流れるような娯楽音楽とともに、耳をそばだてて、ふと現われては消える人生の悲哀の旋律が聞こえてきたら、モーツアルトの涙というか本質が見えて来るのである。山や谷間や自然を逍遥するとブルックナーの森羅万象の音楽が聞こえてくるのと、そこの所が違うと思う。
(了)
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(27)~ドイツの協奏曲のプログラム~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月19日(金)16時34分54秒
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   古典音楽協会という団体が定期に「ドイツの協奏曲」という題で取り組む曲目が、聴きに行かなかったが参考になる。
*ファッシュ:ヴァイオリン協奏曲 二長調
*ヘンデル:オーボエ協奏曲 変ロ長調
*バッハ:ブランデンブルグ協奏曲 4番 ト長調
*バッハ:チェンバロ協奏曲 ニ短調 BWV1052
*カール・シュターミッツ:協奏交響曲 ニ長調

 さらにジャパンチェンバーフィルハーモニーが,「08’コンチェルト」と称してバッハ・ハイドン・モーツアルトのピアノ協奏曲を並べて演奏するというので、三鷹に駆けつけて聴いたのである。

*バッハ:ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 BWV1052
*ハイドン:ピアノ協奏曲 二長調 Hob.ⅩⅧ-11
*バッハ:ピアノ協奏曲 第7番 ト短調 BWV1058
*モーツアルト:ピアノ協奏曲 12番 イ長調 K414

ーーー聞いた印象は、まずバッハ、ハイドン、モーツアルを並べて演奏する音楽会が激減しているので、拍手。演奏するソリストたちはピアノを教えている人々だったり、管弦楽も指揮者のみがプロらしく、あとはアマチュアの香りがするので拍手。そういうわけで、アマチュアがアマチュアもどきの演奏を聴けて楽しめた。モーツアルトのピアノ協奏曲12番とか初期中期の作品はめったに聴けないので貴重であった。作品としては、バッハのBWV1052のニ短調とモーツアルトのK414のコンチェルトがズシリと内容の詰まった名曲であった。
来年3月中旬の協奏曲演奏会は、シューマン~ロマン派 ピアノコンチェルトと称して、ショパン、ウェーバー、メンデルスゾーン、ベートーベン、モーツアルトの協奏曲の中から3曲~6曲。東京紀尾井ホール及び名古屋で各3人のソリストを募集して行なうというのである。楽しみである。
(了)
 

汲めども尽きざる永遠のモーツアルト、ピアノ協奏曲の系譜(26)24番ハ短調~ベートーベンが愛し、同じハ短調第3協奏曲を作った~

 投稿者:安井忠之メール  投稿日:2008年 9月18日(木)16時11分41秒
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   軽妙なフィガロの結婚と併せて荘重なこの24番を同じ年に作曲している。ベートーベンは20番二短調と24番ハ短調を愛し、20番はカデンツアを作曲し、24番はベートーベンの第3ピアノ協奏曲へと結実した。第3協奏曲は主題、調性、曲想すべてモーツアルトの24番が下地になった。24番は交響曲的で管弦楽が充実している上曲想が悲劇的でベートーベン、ブラームスへと連なる協奏曲の先駆となった。

24番 ハ短調 K491 1786ウィーン クララ・ハスキル イーゴルマルケビッチ指揮ラムール 24ビットCD又はLP 1960.11録音

 ハスキルのピアノが透徹した音色と深々とした個性溢れるピアニズムで圧倒し、管弦楽のドラマティックな荘重な管弦楽と調和する。カデンツアがハスキルのもので、情熱的で暗くベートーベン的で肌を突き刺しそのほの暗い情熱が素晴らしい。ハスキルの芸術は天衣無縫の奇跡的演奏。
 カザドジュ=ジョージセル=クリーブランド1961LPは、音が悪いけれども、個性的で、流麗と程遠い造形的な新古典的解釈。センス溢れる引き締まったピアノと管弦楽で、たいそうロマン的。カデンツアがサンサーンスのもので、激しく情熱的で聴き応えがある。
 ポリーニ弾き振り=ウィーンフィル2007CDは、ウィーンフィルの音色、情熱的演奏にまず圧倒される。ピアノのほうは透明な音色で響きが良くポリーニと分る。明晰でクリアな録音はよいが、軽妙と言うか深刻にならないで美しいのであるが、風格と言うか何か物足りない。カデンツアはサルバトール・シアリーノのもので、歯切れよくドラマティックである。
 ギーゼキング=カラヤン=フィルハーモニア1953CDは、歴史的な録音であり、リリカルで荘重で、カラヤンが個性を見せ付けないで控えめな管弦楽が良いが、ピアノの飾らないリリカルで透徹した古典的ピアニズムがギーゼキングの個性そのもので天衣無縫の名演奏。2楽章は他の演奏より1分半ほど長く深々とした叙情。カデンツアはヨハン・ネポムック・フンメルでベートーベンのK466の20番なみの力作で、24番の悲劇的な協奏とよく合う。
 内田光子=テイト指揮イギリス室内1988CDは、管弦楽が重低音も出して荘重だが指揮がやや浅い。ピアノは考え抜いて弾くそぶりを見せる。テクニックを見せ流麗で作為的で、途中で飽きて退屈になる。カデンツアは内田のもので、劇的で聞かせるけれども技巧と華麗を見せつけるようで嫌らしい。知的で流麗で深刻にならないでかつ、カデンツアを過去の名作を使わないで自作を弾くのは、アンドレ=プレビンかアルフレッド=ブレンデルの真似でないかしら。
(了)
 

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