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「委」(=禾の女⇒皇后・女王)

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2014年 5月 1日(木)09時47分46秒
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  李 方子(り まさこ、朝鮮語: ? ??〈イ・バンジャ〉、1901年(明治34年)11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。
その配偶者が李氏朝鮮の李根ということです。

その息子が李玖。
李 玖(り く/イ・グ/? ?、1931年12月29日 - 2005年7月16日)は李王垠の第二子。父は大韓帝国の元皇太子で李王、母は日本の皇族である方子女王。王公族としての身位は王世子、敬称は殿下。なお、今上天皇は共に久邇宮朝彦親王を曾祖父とする又従弟に当たる。
1931年(昭和6年)12月29日午前8時22分、李王垠とその妃方子女王の第二子として誕生。兄晋は夭折していたため、玖が王世子(李家当主(=李王)の嗣子に与えられる位)となった。翌年1月4日、命名式が行われ「玖」と名付けられた。
第二世界大戦後、日本国憲法施行に伴い王公族の地位を喪失する。
伏見宮博明王(皇籍離脱後は伏見博明)とは幼少時から親しく、ともに戦後は米国への留学を熱望するようになった[1]。学習院高等科卒業後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958年(昭和33年)10月、ヨーロッパ系アメリカ人女性のジュリア・マロックと結婚してアメリカに帰化した。
1963年(昭和38年)、両親の韓国帰国に際して同行。両親・夫人とともに昌徳宮楽善斎に居住し、同国の実業家になったが、経営していた新韓航空が1979年(昭和54年)に倒産。以後は日本(主に東京)で生活を送る。子が無いことから、韓国の李氏宗親会等の勧めで1982年(昭和57年)にはジュリア夫人とも離婚した。なお、1969年(昭和44年)に養女ユジニア(Eugenia Unsuk、1959年 - )を迎えている。
1996年(平成8年)、全州李氏大同宗約院の総裁に就任したことで、韓国へ永住帰国。しかし事業への失敗等から再び日本へ戻り同族会からの援助で生活を送るが、やがて送金が停止される。
2005年(平成17年)に知人の援助を得て、かつての李王家邸であった赤坂プリンスホテルに宿泊するが、滞在約1ヶ月が経過した2005年(平成17年)7月16日、心臓麻痺のため同ホテルで死去。前述の通り、子が無かった為、李王垠とその妃方子女王の直系子孫は断絶した。
葬儀は7月24日、ソウルで行われた。葬儀には李海瓚国務総理、兪弘濬文化財庁長官、国会議員など多くの韓国政府要人や、日本からも玖の従兄弟にあたる人物などが出席した。追号は全州李氏大同宗約院によって「懷隱(ホェウン)」と決まった。
李玖の伯父・義親王李堈の孫にあたる李源が彼の養子に指名され[2]、李家を継ぐことが全州李氏大同宗約院にも承認されていたが、女帝を主張する李海瑗との間で係争となっている。李源はヒュンダイホームショッピングの児童スポーツ部長である。

李晋
李 晋(り しん、1921年8月18日 - 1922年5月11日)は、李垠の第一子。母は日本の皇族・方子女王。敬称は「殿下」。
生涯
1921年(大正10年)8月18日未明、李王世子垠と妃・方子女王の第一子として誕生。誕生に当たり、敬称に「殿下」を用いることが定められた。朝鮮の王族と日本の皇族との間に生まれたため、「日鮮融合」の象徴として注目された。同月24日に「晋」と命名された。誕生して間もなくは乳母が置かれたが、やがて母・方子女王自ら母乳を与えるようになった[1]。
1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻は生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問する。晋と李王(純宗)との対面等が目的だった。晋は帰国直前の5月8日早朝から下痢・嘔吐が始まり、一行は帰国を中止。食事を受け付けず衰弱していき、同月11日15時15分、晋は急逝する。晋の死は急性消化不良と診断された。
その一方で、日朝双方による毒殺説が流布している。帰国中止の第一報で、既に陰謀説が報道された[2]。さらに、死去直後にも現地(京城)では「報道する自由を持たない」内容の流言が飛び交っていると報じられた[3]。
同月17日、朝鮮式での葬儀が京城(現ソウル)で執り行われ、京畿道商陽郡清涼里に埋葬された[4]。

ここまでがWikipediaの限界です。

実は、姉の規子が重要なのですが、彼女の情報が少な過ぎます。
梨本宮守正王の娘・規子。息子には守正王の養子となった梨本儀光がいる。
一人息子になってます・・・・本当は6人兄弟なんだけどな・・・
答えを知っているのに書けない。まるで数学の証明問題みたいですね・・・。

今回はここまで、それでは。

皇族随一の美貌をうたわれた伊都子妃にヒントがありました。
伊都子、信子(松平容保の六男恒雄妻)、俊子(李鍵公妃誠子 実名松平佳子の母)らの生母は鍋島直大の継室 広橋榮子でした。広橋胤保の五女で直大とはローマで結婚しています。

全州李氏大同宗約院(ぜんしゅうりしだいどうそうやくいん)は、韓国の社団法人。ソウル 特別市鍾路区に所在。 李氏朝鮮王朝の国王を輩出した全州李氏の末裔達が設立した http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%B7%9E%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E5%A4%A7%E5%90%8C%E5%AE%97%E7%B4%84%E9%99%A2

全州李氏(ぜんしゅうりし、????、チョンジュイシ)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫を全州とする。14世紀に李成桂が出て李氏朝鮮王朝を建国した。

唐王朝の帝室である李氏は、老子の子孫だった (子孫であると自認していた) と書物で 読んだことがありますが、系図でもあったのでしょうか?
漢代の将軍・李広、
五胡十六国時代の西涼を興した李暠と豪華なものとなっています。
おそらくは西魏の武川鎮軍閥出身の李氏はともすれば鮮卑系ともいわれる名門ではない家系のため箔をつけるための家系図だと考えられます。

系図http://www.k4.dion.ne.jp/~mat_reki/kakeizu.html

反日俳優ソン・イルグクは豊臣秀吉の子孫?! http://ameblo.jp/sumi-jon666/entry-11830205954.html
ウィキペディアによれば、

日本統治時代の末期にはソウルの繁華街、鐘路(チョンノ)を中心に朝鮮のチュモッケの王(げんこつ界の王、拳の皇帝、最強の腕っぷし)として暗躍。
18歳にして朝鮮全土に約3万人の構成員を抱える任侠団体、鐘路派(チョンノ・パ)の頭目に就任。
不良愚連隊や暴力団のごとく一般市民に対し悪行を働くのではなく、金佐鎮(キム・ジャジン)の息子であることを誇りに、強い反日の姿勢から、日本軍の武器庫を爆破。
日本系暴力団(商業権を狙って縄張りを拡大していた)と抗争を繰り広げ、朝鮮人商人を保護する侠客として活動した。

安東金氏には、新羅王族の敬順王の孫の金叔承を始祖とする家系(旧安東金氏)と、高麗建国の功臣である金宣平を始祖とする家系(新安東金氏)がある。

豊臣秀吉の父・木下弥右衛門は、足軽または農民、さらにはその下の階層とも言われており、下層階級の出身であったといわれている。
さて。
663年8月、白村江の戦いがあった。
現代まで、この戦いが続いていると耳にする人も多いだろう。
この戦いは、倭国・百済遺民の連合軍VS唐・新羅連合軍。
実は、敗北した約30万の豊臣秀吉軍・将兵達が、韓国のソウルに収監され、高麗時代には安東金氏・金姓一族となり、李氏朝鮮時代には白丁となったというのだ。
もし、それが本当なのだとしたら、今日本にいる在日の多くは、豊臣秀吉の末裔たちかもしれないのである・・・。

・中世に、「秦皇帝家の皇太子」(=徐福)が、「日本の地」に渡ります。
 この「秦皇帝家の皇太子」(=徐福)が、日本の地で即位した「秦皇帝・伊」(=伊勢神宮)で、いわゆる「日本建国の祖」(=日本武尊⇒初代・神武天皇)になります。そして「徐福⇒秦皇帝・伊」(=伊勢神宮)が上陸した島根=出雲の地が、「日本建国の神話の地」となります。
 その後、奈良の地で、「クーデター軍」(=明智光秀・豊臣秀吉)によって暗殺されます。この事件を、中世史における、「第二次・皇帝暗殺事件」(=倭国大乱)と言います。
・「秦皇帝家の聖地・沖縄」(=蓬莱の地)を、奪還!!
 沖縄は、「初代皇帝」(=始皇帝)が誕生した地で、いわゆる「秦皇帝家の聖地」(=蓬莱の地)に相当します。その「秦皇帝家の聖地・沖縄」(=蓬莱の地)で、「初代皇帝」(=始皇帝)が暗殺されクーデターが勃発しました。これを、古代史における、「第一次・皇帝暗殺事件」と言います。
 その為に秦皇帝家では、「秦皇帝家の聖地・沖縄」(=蓬莱の地)を奪還する事が最大の悲願でありました。そこで「秦皇帝家の皇太子」(=徐福)が、「秦皇帝家の聖地・沖縄」(=蓬莱の地)を奪還する為に、「征討軍」を率いて日本の地に渡ったわけです。
・「日本の地」に留まった 秦皇帝家!!

「秦皇帝・伊」(=伊勢神宮⇒織田信長)が、「クーデター軍」(=明智光秀・豊臣秀吉)によって暗殺されクーデターが勃発します。この事件で「皇帝の子」(=森蘭丸⇒李舜臣)は、「大陸」に亡命した後に、「反撃」に転じていきます。
 そして「皇帝の子」(=森蘭丸⇒李舜臣)は、「クーデター軍」(=豊臣秀吉⇒朝鮮)を討伐した後に、「徳川幕府」(=日本国家)を創建します。この事によって、「秦皇帝家」は日本の地に留まり、「幕末」に皇帝の座に復活する事になります。その復活した秦皇帝家が、「現天皇家」(=東京)です。

「秦」(=秦皇帝家)を分解すると、「三・人・禾」となります。この「禾」(=のぎへん・いね)が、「秦皇帝」(=稲)を表します。
 例えば、「稲」(=秦皇帝)と「米」(=皇帝の子)、あるいは「豊稲田姫」(=須佐之男の妃)と表します。「豊」(=豊姫)は、「皇帝の座に就いた皇后」(=女王)で、いわゆる「初代天皇」(=九代・開化天皇)を表します。この「豊姫」(=初代天皇)の臣下が、「豊臣」(=豊臣秀吉)です。
・「禾」(=秦皇帝)を追求していくと、「禾の子」(=李⇒皇帝の子・李舜臣)、「禾の乃」(=秀⇒孫分家⇒明智光秀・豊臣秀吉)が登場します。つまり「李舜臣・明智光秀・豊臣秀吉」の三者は、「秦皇帝家の皇族・一族」という事です。
 さて「李と秀」(=李舜臣と豊臣秀吉)が戦う事になります。何故でしょうか。それは、「秦皇帝・伊」(=伊勢神宮⇒織田信長)が、「クーデター軍」(=明智光秀・豊臣秀吉)によって暗殺されたからです。
 「織田信長・暗殺事件」(=戦国時代)は、実は、「秦皇帝・伊」(=伊勢神宮)の暗殺事件・クーデター事件です。これを、「第二次・皇帝暗殺事件」(=倭国大乱・魏志倭人伝)と言います。ちなみに第一次・皇帝暗殺事件は、「始皇帝・暗殺事件」です。
・「禾の女」(=委⇒皇后・女王)を追求していくと、「委」+「イ」=「倭」となり、「倭王」(=卑弥呼)が登場します。
 その「倭王」(=卑弥呼)は、「親魏」(=親魏倭王)から、「魏王の母親」である事が解ります。つまり倭国大乱とは、「秦皇帝・伊 暗殺事件」(=織田信長・暗殺事件⇒戦国時代)を記録したものです。そして「倭王」(=卑弥呼)が、「魏王の母親」(=李舜臣の母親)で、いわゆる「初代天皇」(=九代・開化天皇)を表します。

「委」(=禾の女⇒皇后・女王)は、「委」⇒「倭」⇒「倭国」⇒「倭国大乱」、あるいは、「委」⇒「魏」⇒「魏王」(=女王の子)⇒「親魏」(=魏王の母親⇒卑弥呼)となります。また「禾の口」⇒「和」(=女王)⇒「和を以って貴しと成す」(=十七条憲法)⇒「七」(=七代・孝霊天皇・女王)、「和」(=女王)⇒「大和」(=女王の子)となります。
 「秦皇帝・伊」(=伊勢神宮⇒織田信長・徳川家康)の暗殺事件で、「皇帝の子」(=森欄丸⇒魏王⇒李舜臣)は、「アジア大陸」へ亡命します。その大陸側に在した「皇帝の子」が、「魏王」(=魏志倭人伝)、「李舜臣」(=韓国史)、「聖徳太子」です。
 「聖徳太子」(=大陸側)が、「隋王」(=日本側のクーデター王・明智光秀)に対して、「降伏を勧告する書簡」を送りました。それが、「日出る国の天子、日没す国の天子に書を致す」というものです。ここで、「皇帝の子」(=聖徳太子・李舜臣)が大陸・朝鮮半島側であり、「クーデター軍」(=明智光秀・豊臣秀吉側)が日本に在したという事をキチンと理解しておく必要があります。
 「大陸側の皇帝の子」を支援していたのが蒙古軍で、「皇帝の子による二度の総攻撃」が二度の蒙古来襲になります。また、「大阪 夏の陣・冬の陣」とも表します。繰り返しますけども、「日本側」はクーデター軍=明智光秀・豊臣秀吉軍で、「大陸側」が皇帝の子軍という事をよく理解しておいて下さい。

「李舜臣と豊臣秀吉の戦い」について、日本国民・韓国国民は大きな誤解をしている!!

重要な事は、この「捕虜となった豊臣秀吉軍」(=朝鮮軍)の中に、実は「豊臣秀吉直系の子供」が存在した事です。その「豊臣秀吉の子供」が、後の「安東金氏」(=金姓一族)で、いわゆる「韓国闇組織の本家」となります。
 「韓国闇組織の本家」(=安東金氏・金姓一族)は、「明治時代」には、「朝鮮人の閔妃」(=明成皇后)とともに大韓国=李王朝の乗っ取りを謀ります。日本敗北後は、「金日成」を利用して、「朝鮮半島乗っ取り事件」(=朝鮮戦争)や、「韓国民の大虐殺事件」(=良民大虐殺事件)を引き起こします。そして現在は、「反日運動」を利用して、「大韓国の乗っ取り」及び「大韓国民の弾圧」を謀っています。
 奇襲攻撃に失敗した「豊臣秀吉」(=朝鮮)は、ほうほうの呈で、「日本」に逃げ帰ってしまいました。その後を追って「皇帝の子」(=李舜臣⇒徳川家光)が、2度目の総攻撃を開始します。そして「大阪の地」で豊臣軍を壊滅し、「奈良の地」(=平城京)で豊臣秀吉本人を捕虜とします。その「豊臣軍の敗残兵達」(=朝鮮人達)が落武者⇒部落民で、「部落民差別」の元になっています。

「李王朝」(=大韓国)の時代、朝鮮人達は、「最下級の人々」(=賎民・白丁・)と呼ばれた。

新羅王の金氏について、文武王碑文からルーツを追跡した おもしろいドキュメンタリーがありました。 http://rekijonoblog.seesaa.net/article/126709111.html
漢書金イルチェ伝」によれば、金イルチェは匈奴の休屠王の太子。
トゥフは、匈奴族の太子、金イルチェだけのための漢の諸侯の官職名だった。
金イルチェは、初めて金氏性を使った人物。
文武王碑文では、金イルチェは、碑文の新羅金氏王族の始祖を記した段落に登場する。続いて登場するのが、見慣れない名前、星漢王。
星漢王は文献記録に全く載っていない。
これらの話は、慶州金氏一族にとっては初耳であり、認めたら大きな混乱を起こすという。

高麗文化財研究院人類学博士の解説によると。。。。
「トゥフ職は、金イルチェの家系だけのもので、漢の武帝が創案した新しい官職です。
現在の山東省の市の名前です。
そのトゥフ祭天之胤の意味は、トゥフが祭天した人の子孫と同一人物という意味です。
これは明らかに、「我々は、トゥフの子孫で祭天之胤だ」という意味です」

碑文は新羅金氏の祖先が匈奴族金イルチェと明かしたのだ。

星漢王は金氏始祖 を意味するといえる。星漢の名は高麗国初の金石文「広照寺真澈大師宝月乗空塔碑」( 太祖二十年、937建立)にもまた見える。

ウィグルには 契丹の貴族など がおり、サダ突厥は 漢王室・唐王室の外戚になり、後 清朝をたてる。 ...... 松野連姫氏 系図の考察 - 新・古代国家論とても興味深く読ませて頂きました。http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101327_95.html
松野氏系図を 見ながら 思いましたが、
(松野氏は呉王の末の他に
壱岐直の系に 松野がいる。
宇都宮の系に 松野がいる。)
私は 父方の方で 箕子朝鮮の言葉を聞いており じぶんとこは 殷にいくか

ネットからひろいましたが
史記」の「卷四十一 越王句践世家 第十一」に登場する文章を引用している。 「越王句践 (こうせん)。その先は禹の苗裔(びょうえい)にして、夏后帝少康の庶子なり。会稽に封じ 、以て禹の祀(まつり)を奉守(ほうしゅ)す。

始皇帝子孫という人達の大量の流入は 民族対立の歴史に鑑み 秦も又 胡族であったことが 知られるのであります。と その前にいた人達も 胡族であったらしい。
 
 
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