teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月23日(木)15時00分49秒
返信・引用
  口(sai)
占うのには竈と兆がいる。 ... 姜王の精が祖である渾敦を子宮である炉に宿す。 ... 鍛冶師が炉を子宮になぞられるのも、彼らの経験上、自然なことであったろう。 鍛冶と性的な儀礼はこうして不可分となり、鍛冶の現場で性的な ...
http://www.pandora.nu/zappie/award4/sai.html
「口」字はもととつくり、さいと読んで、祝詞を入れる器である。また器はしゅうと読むさいを四つ並べた形に、犬牲を供えた象である。

高坏(たかつき) ... 神祭具・・・具・・・鼎・・・アリダード・・・国見

火の神のカグツチ(迦具土)・・・カグヤマ
カグツチの死体から、以下の神々が生まれた。 正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から ...
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AB%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%81

二段の鼎?・・・アリダード! ... こしき(甑・鼎・アリダード)に ちり(地理)が積(目論見モクロミ)もり、かま(缶・瓶・・・甕棺?・・・・古墳?) ...
88は、勝利(勝利はイエスの象徴)http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1653
旧地名を「甑(コシキ)山」
甑氏
甑氏系図が記録されている。 釜鳴り神事について左側の 中央のやや膨らんだ甑(こしき)と、釜からなるシンプルなものです http://www.jiiya.com /purana8.html 鼎炉仙道の修練鼎炉は薬を煉る場所のこと。http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1224

>「口」字はもととつくり、さいと読んで、祝詞を入れる器である。また器はしゅうと読むさいを四つ並べた形に、犬牲を供えた象である。

「眾口なり。四口に從ふ」とある。
?とは (シュウとは) http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%97%8A
〔説文解字〕に「眾口なり。四口に從ふ」とある。〔説文解字〕などは、口をくちの意味として、4つのくちで喧嘩、やかましいという意味としている。一方白川静は、口(サイ)は祝詞を容れる祝器としていて、多くの祝器を並べてかまびすしく祈る意味としている。

>神梯・・・?・・・降りてくる

頁ケツ・かしら・ページ頁部解字甲骨文は、「あたま(首)+ひざまずいた人」の会意。あ たま(首)は3本の毛が生え、目玉が描かれており、甲骨文の首と同じ形。これに、 ひざまずいた人を加えた頁は、ひざまずいた人の頭部を強調した字。
「頁ケツ」 <あたま>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/016d6af965e2bcd1e0b5ec4a8cd65078

頁・・・広い目、広い顔?
・・・彼女の名前の由来は、広い目、広い顔、という意味のようです。・・・エウロペ?

「頁」・・・ 牛の頭がい骨+オリオンの三ツ星?

おうし座は、オリオンの三ツ星を西の方に伸ばした先…http://www.zero-co.com/seiza/guide/tau.html
ヨーロッパという地名は、エウロパが上陸したことから付けられたといわれています。

ヨーロッパとはギリシャ神話のエウロパなる女神、黙示録の緋の 獣に乗る大淫婦の原型 です。

エウロパは、やがてその 美しい白い牛を見つけて近寄りました。 真っ白な腹をなで、頭を ... 意味のようです。 フェニキアでは、月の女神セレネと同一視されることもあるようですhttp://niki310.blog.so-net.ne.jp/2012-02-27-2
ゼウスは甘言で彼女を籠絡し、ヘパイストスに作らせたネックレスと3つのプレゼントを贈って、彼女に3人の息子を産ませました。

牡牛座は、エウロペに恋をした神々の王ゼウスが、牡牛に変化した姿が星になったと されています。https://uranailady.com/shinwa/oushi.html

おうし座の目印になるのは、赤い色をした星 アルデバランと、その周りの星をつないでできる、「V」の字のような星の並び。http://www.zero-co.com/seiza/guide/tau.html

周りの星・・・?(かまびすしい)・・・

高いところにいる人が、その場に降りてくる(出向く)
「頁(あたま)+?(かまびすしい)」 の会意。
 「品ヒン」 <供えられた多くの器物> と 「器キ」 「囂ゴウ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ebd28d4506e66120026e35a7e0388f12
解字 「口+口+口」の会意。口は器物をかたどり、祭礼や行事の際に、供えられたいろんな器物が並んださま。品物の意のほか、献上された品の種類やその良し悪しなどをいい、また良し悪しを人に例えて言う。
意味 (1)しな(品)。かたちのあるもの。「物品ブッピン」「商品ショウヒン」 (2)等級。種類。「品種ヒンシュ」「品目ヒンモク」 (3)人の資質。「品性ヒンセイ」「品格ヒンカク」
イメージ  「供えられた器物」 (品・臨)
       「物が重なるさま」 (嵒・癌)
臨 リン・のぞむ  臣部
解字 「臣(下をむく)+?(人の変形)+品(供えられた器物)」 の会意。臣シンは目を下にむけた象形で、見おろす意(音符「臣シン」を参照)。人が高いところから下の器物を見下ろすこと。また、高いところにいる人が、その場に降りてくる(出向く)、その結果、実際にその場に居合わせる意となる。



口・・・鼎 ・・・アリダード
口が窄まった小さな鼎
鼎(測斜儀)による平板測量http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3664

卜問するなり、卜と貝に従ふ、貝は以て贄(し)#5と為すなり、一に曰く、鼎 の省聲なり、http://jigen.net/kanji/35998
卜問・・・占い
鼎は、耳が立っていて対 http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%BC%8E
神への犠牲を煮るのに用いたことから神聖視され、祭器・礼器として扱われ、占いにも用いられた。また王侯の象徴として扱われた。鼎の軽重の話は有名である。
当と通じて、まさに、あたる、貞と通じて、正しい、という意味がある。
貞:鼎を横から見たところの象形。

>眞(テン)
ヒ(さじ)+鼎
真[眞] シン・ま・まこと  目部 http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/681d475fedeb03084ca2729aef9694bf

真」は康煕字典では「眞」の俗字となっており、両者は意味が近いため途中で混同したと 考えられます。 ... http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-62.html
「只」=「口」+「八」:=ひと+優れた男=>優れた男の人=>普通の男=>唯の男=特徴のないもの=>単なるもの=
「口」=ひと・・・口をひらいている人・・・追及するもの=>あるべき姿を追うもの=>まこと/しんじつ=>しんり(「ヒ」cf.49、「目」cf.48)?

魯ロ・おろか魚部解字甲骨文は、「魚(さかな)+口(いう)」の会意。魚を神に供えて神に すすめて幸いを祈る(口)こと。
「魯ロ」<ロの音>
ロは露ロ(覆いがない)に通じ、木で組んだ屋根がない物見やぐらをいう。
矢倉とも書く

・・・やぐら跡とか発掘されたら面白いですね。 あと社殿がまんま納屋みたいに見えました。 まぁ機能的にはそうだったんでしょう。 ということで、実際に確認して「春日免」が「屯倉」 であったということを納得して帰ってきました。 http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2014/11/16/201526
・・・「一町地」の面積は一町四面余り。 ・・・田畑の真ん中に「春日神社」が鎮座してます。

口は金文で曰(いう)になり、さらに篆文で白となり、現代字は日に変化した魯になった。http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/6238cc0bdbdd56cc48a54a4d32c14ef8

口をひらいている人の側身形。 「欠ケツ・ケン」<口をひらいている人> と「飲イン」「吹スイ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/1157715da1236f53fd9541f1d907f28b
口をひらいている人・・・肉月?

肉ではない
「夕+ 口(祭祀の器)」で、①(夜間の)祭祀名。・・・
「名メイ」 <なまえ>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/4bd33a4d8182e579e55004189446ad0d
夕と肉の古代文字は似ているが、甲骨文字は明らかに夕(夕方、また夜)であり肉ではないため、この説は成り立たない。

刁になり、口を加えて司になった。

「司シ」 <神につげる>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/289ab71a0eec58e2b520d495662b39cf
解字 甲骨文は、「人の変形+口(神への言葉をいれる器)」 の会意。神への祈りの言葉をいれた器を前に、手を出して祈る人の形で、祭りをつかさどる人の意。金文も同じ形。篆文から、祈る人は、人と手がはなれた刁になり、口を加えて司になった。
意味 (1)つかさどる(司る)。責任者として行なう。「司会シカイ」「司書シショ」「司法シホウ」 (2)つかさ(司)。役人。つとめ。「祭司サイシ」「国司コクシ」 (3)うかがう。
イメージ  祭りを 「つかさどる」 (司・祠・嗣・飼・笥)
       祈りの言葉を、 「神へつげる」 (詞)
       神へ祈りの言葉をつげて、 「神の意志をうかがう」 (伺・

覗 シ・うかがう  見部・・・目部?
解字 「見(みる)+司(神の意志をうかがう)」の会意形声。神の意志をうかがうように、そっと見ること。のぞき見ること。
意味 うかがう(覗う)。のぞく(覗く)。そっと見る。

のぞく(覗く)・・・筒形の容器の中

「ゆきわたる」
手桶のような筒形の容器の中は空洞(くうどう)になっていて、その空洞の中を通って、 滞(とどこお)ることなく通り抜(ぬ)けることができます。そのことを「通」というのです。 そのため「通」は「とおる」「とおす」「ゆきわたる」などの意味があります。(
「通」 空洞を滞りなく通り抜けるhttp://www.47news.jp/feature/47school/kanji/post_153.html
「甬(よう)」という字形です。
 これは「用」と「マ」という字形を合わせた形。「用」は竹や木を組んだ形で、柵(さく)や籠(かご)などの意味があります。そして柵の中には生けにえに用いる動物などを入れていましたので「もちいる」の意味があります。
 でもこれから取り上げる「甬」の場合の「用」は、木や竹でできた筒形(つつがた)のもののことです。この「甬」では「用」の上部に引っかける部分がついています。それが「マ」の字形の部分です。
 さて、この「甬」の字形を含(ふく)む字には「筒形のもの」という意味があります。これから何回か、その筒形の字について説明したいと思います。
 まず「甬」という字は「おけ」という意味で、この「甬」に「木」を加えた「桶(おけ)」という字の元の字です。「桶」は木製の筒形のものという意味ですから、これはつまり「手桶」のことです。
 「桶」の音読みには「トウ」「ヨウ」「ツウ」の三つがあります。「トウ」については「湯桶(ゆとう)」という変則的な読み方で有名です。これは上の文字を訓で下の文字を音で読んでいます。逆の上音下訓の例としては「重箱(じゅうばこ)」が有名です。
 「桶」の元の字形「甬」は「用」に従う文字ですから、「ヨウ」の音読みもあるのです。でも「通」の字にも「甬」が含まれているように「ツウ」の音読みもあるのです。
 さて、最後にその「通」です。これは「甬」と「(シンニュウ)」でできた文字です。「甬」は手桶のような筒形のもの。「(シンニュウ)」は道を行くことです。
 手桶のような筒形の容器の中は空洞(くうどう)になっていて、その空洞の中を通って、滞(とどこお)ることなく通り抜(ぬ)けることができます。そのことを「通」というのです。そのため「通」は「とおる」「とおす」「ゆきわたる」などの意味があります。(共同通信編集委員 小山鉄郎)
「甬」
「侖」
「龠」が意味する ... 小篆の字形 について『説文解字』は「品」(3つの穴)と「侖」(秩序の意)の会意文字とするが、金文 など古文字を見ると、むしろ「△」部分がなく、二三の穴と管の形に象っていることが 分かる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%A0%E9%83%A8

地球の大きさを測る 二龠で一合 子午線弧http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3715
龠 〔意味〕容積の単位。二龠で一合になる。また、その量を入れるます。 http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/yaku.htm
この容器というのは、サイコロ(立方体)の1角に集まる3つの面で構成されていますが、この容器に水を注いでも、3つの角の高さまでしか水は溜まらないので、水面のかたちは「正三角形」になり、正方形の上半分は遊んでいます。
〔ます〕の歴史は「6龠為1升」から始まった。
「品」(3つの穴)
小篆の字形について『説文解字』は「品」(3つの穴)と「侖」(秩序の意)の会意文字とするが、金文など古文字を見ると、むしろ「△」部分がなく、二三の穴と管の形に象っていることが分かる。「△」部分は後で付け加えられたもので、人の口あるいは管を束ねることを表していると考えられる。
升 が意味する容器
大きな柄杓のことを「斗」という。「斗(北斗七星)」は星座が柄杓の形をしている。)
「圭」
〔多迩具久〕は名前からしてヒキガエルの姿をした神様ですが、漢字で「蛙」の旁になっている「圭」とは、三角形や角錐が鋭く尖った形のことです(ただヒキガエルの場合は末広がりの末端から足が出ています)。人の手に乗る程度の大きさですから、目下の話題に引き寄せて、「龠」や「合」をかたどるものと見てもよい。

肅(規則正しい文様をえがく)」
粛[肅] シュク・つつしむ  聿部ふでづくりhttp://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/47184c35aa53e5b30ecc93995549b6f1
解字 甲骨文は「聿イツ(手に筆をもつ形)+ぶんまわし(コンパス)」の会意で、筆を用いて器物にコンパスで模様を描くこと。コンパスで描く模様は規則正しく、器物を神聖なものとするので、その器物は「おごそか」なものとなり、その前では身を「つつしむ」意となる[字統]。篆文・旧字は、聿の略体の下に、コンパスに代わって上下左右対照の模様が描かれる。新字体は、旧字の肅⇒粛に略された。部首は筆を示す聿。

魔法の図形http://dragonslair.jp/main/msymbols/index.html
円 ○
 古代から様々な図形が魔術、妖術、まじないと呼ばれる類のものに用いられてきました。これらは時には不思議な力を得るために、時には何かから身を守るために使われてきましたが、その最も古いものは円(○)であるといわれています。円は偉大なる太陽、生命の種たる卵、巡り来る車輪、神秘的な力をもつ眼など、いろんなものを象徴するもの図形でもありました。「円」は魔術において、最もシンプルな形をした魔法円でもあります。

三角形 △
 円よりはいくらか新しいと考えられているのは三角形(△)です。この形も円と同様、様々な魔術などに、ある時は単体で、ある時は他の図形と組み合わせて使われました。三角形の3つの角には特別な意味が重ねられて考えられました。大地と水と空、父と母と子、現在と過去と未来、キリスト教的には父と子と聖霊など…。これ以外にも3という数字で表されるものは多く、それこそ際限なくいろいろな意味を重ねることができるかもしれません。また三角形という形が見た目に安定感を感じられる形をしているという事も、いろいろなところに用いられる別の理由の一つなのかもしれません。

十字 +
 十字、十字架は、今では完全にキリスト教のシンボルとして扱われることが多いのですが、キリスト教のシンボルとして採用されるより以前には、様々な魔術的意味をもった図形の一つとして扱われていたようです。大宇宙または大自然の中心に立つ人間を表していると考えられたり、何らかの目的(願望)や精霊や魔物をどこかに固定し釘付けするための記号としても用いられたとか。またシンプルに「死」を表す形としても用いられました。倒れた人の形を表すと考えられたのかもしれません。今でこそキリスト教の十字架ですが、この「死」を表す形だからこそ処刑に使われたのでしょう。中世ヨーロッパなどでは「剣」がある種特別な意味をもつ武器として扱われていましたが、これは剣の形、鍔と本体が交叉して十字架を形作っているというのが大きな理由になっているようです。

四角形 □
 魔術的図形としては四角形はあまりメジャーではないような気もしますね。しかし四角形の中を縦横の線で方眼のように区切ってその中に数字を入れ、「縦横」「斜め」の数字の合計がどこをとっても同じになるようにした「魔方陣」は、多少は有名かもしれません。「どの列も数字の合計が同じ」という、なんとなく不思議げな(笑)(昔の人にとっては本気で不思議な)この「表」には不思議な力があるとされ、魔術的な護符などとして用いられたようです。高度なものではないにしろ、やはり魔術にもちいられたようですから、一応は魔法の図形としておきましょう(笑)。
 四角形の四つの角には、「魔術的に解釈しようとすれば」それなりに、魔術的な意味を見出すこともできます。多くの国々の魔術や呪術では、「東西南北の方角」、「4つの季節」、「地水火風の4つの元素」「4大天使」などが重要視されることがあります。この「4つの要素」を象徴する「4つの角」をもつ四角形は、魔術的意味をもっていると考えられても不思議ではないでしょう。四角形だけでなく、他の図形と組み合わせられた「魔法円」や「魔方陣」も使われたかもしれませんね。

Ⅰ-2.様々な星型の図形
 魔術では様々な星型が使われています。これらはいろんなファンタジー小説やゲーム、コミック作品などでもよく描かれ、描写されているので、比較的頻繁に目にすることができるでしょう。魔術に関係する星型とはいっても様々なものがあります。

五芒星
 まず最初に、最もメジャーな魔法の星といえば「五芒星」(ペンタグラム)があげられるでしょう。この5つの角をもつ星型は、古い時代から魔術、まじないなどに用いられてきた図形の1つです。これは最初からこの星の形だったのではなく、もとは正五角形であったともいわれています。なぜ五角形だったのかはよくわかりませんが、古い時代の魔術師たちは「イエス」の誕生を告げ、ベツレヘムの夜空に輝いた星は五角形であったと主張していたそうですから、その辺りが起源なのかもしれません。またこの図形の5つの角は、「魔術の5つの特性(?)」、「人間の五感」、「人間の手足と頭」など、神秘的な5つの要素を表すともいわれています。
 さて、この正五角形からやがて五芒星が派生するわけですが、そもそもはこの五角形の内側の角を結んだ対角線だったようです。この対角線の起点は真上の角で、そこから左下の角へ、そして右上の角、左上の角、右下の角ときて最後に真上の角へと戻ります。これで一筆書きの如く、綺麗な星ができあがります。これらの各々の対角線には実は神秘的で哲学的な意味があるそうで(ここでは述べませんが)、この順序で描くのが本当のようです。ちなみに自然界の4大元素を象徴した五芒星を描く場合には、これとは異なる描き順で描かれることもあるようです。
 五芒星が一つの角が上を向くように描かれた場合は、「神」を表し、良い精霊を呼び出したりする時に用いられ、角を下に向けて描かれた星は悪魔サタンを表すとされ、悪い精霊を呼び出したりする際に使われたりと対照的な意味があります。
 ファンタジーでも、単に魔術的な意味合いでもって使われたり、逆五芒星で邪悪な魔術の象徴として使われていたりしますから、様々な映画やイアラストなどで目にすることも多いでしょう。実際、ファンタジーでオリジナルな魔法円を登場させたり描写する際にも、ペンタグラムはその知名度、認識度の比較的な高さからして"ベース"として使い易いことでしょう。

六芒星
 今日「ダビデの星」「ユダヤの星」とも呼ばれる「六芒星」は、2つの三角形をからみ合わせ、組み合わせた図形です。この星はギリシャ・ローマの時代ぐらいからはユダヤ教のシンボルとして知られていますが、それ以前にも既に魔術的なシンボルとして伝えられていたようです。魔術師たちはこの星型を「とある魔神」の足跡を表したものと考え、「召還儀式」などにも用いていたのだとか…。また錬金術師の間では、この六芒は「水(▽)」と「火(△)」の対象的な2つのシンボルを組み合わせたものと考えれ、やはり神秘的な用法がとられたようです。
 今では一般的にユダヤ教のシンボルとされ、イスラエルの国旗にも描かれているこのヘキサグラムです。日本では家庭用ゲームソフト「女神転生」(2だったかな?)の悪魔合体のシーンにこのヘキサグラムが使われていましたが、海外版として国外へ輸出する際、特定の宗教等を表すものではないがクレーム等に配慮する、として図形を変更したという経緯もあります。それくらい、この図形は今ではユダヤと密接に結びついているようです。

七芒星
 全周360°÷7は…割り切れませんね。そうです真に正確な「正七芒星」というものは描くことはできません(限りなくそれに近いものは描くことはできますが)。「全周360°」という概念がいつの頃の時代からあったのかはよくわかりませんが…。本来は不可能なこの図形、それを転じて「不可能を可能にする」という意味合いで用いられたもののようです。しかし様々な魔法円の中にあって、この「七芒星」がものすご~くマイナーなものである事には違いなく、魔術関係資料を参照してもまず載ってません。かく言う私も1~2回くらいしか見たことはありませんし。ですから映画やその他ファンタジー作品などにもまず登場することはないでしょうね(笑)。

「剣」がある種特別な意味をもつ武器
「剣」
「剣」 会意兼形成文字。 「刀」+音符「僉」(ケン・そろう)そろったかたな。で、両刃の まっすぐ 単語家族「險(ケン、両側がそろって切りたっている)」 「嶮(ケン、山の尾根が 切りたっている)」と同系。 (岩波書店 広辞苑 ・ 学研 漢字源より一部 ...http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/374
兵なり。象形」とある。兵は武器のこと。武器だけ ではなく、一般に刃物や、刃物の形をしたもののことを表す。

剣(僉・刀・兵) 剣は、旧字では「劍」と書き、「僉(セン)」と「刂 (トウ)」とからできています。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2863
ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9
弧と弧が交わる
正五角形とは - Weblio辞書
CDを半径にとり、Cを中心にDからABまで弧を描画する。 弧とABが交わる点をEとする。 DEを半径にとり、Dを中心に弧を描画する。 弧が円Oと交わる二点をF, ... これらの弧が円Oと交わる五点D, F, G, I, Hを結ぶ図形が正五角形である。
http://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E4%BA%94%E8%A7%92%E5%BD%A2

球面三角法 - Yahoo!百科事典
地球上で応用して測量術、航海術、天球上で応用して天文学に用いられる。 ... この大円が交わる点を頂点(この場合三つありそれぞれA、B、Cとする)、頂点と頂点を結ぶ弧を辺という。 ... 頂角Aは頂点Aにおける弧AB、ACへの接線の間の角として定められる。 ...
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%90%83%E9%9D%A2%E4%B8%89%E8%A7%92%E6%B3%95/
球面三角法は、航海などにおける必要から発達し、14、15世紀には今日に近い形ができあがった。

僉(セン)」には、
令、命の上の部分とおなじ部分(人と一とを書いた部分)があります。
これは、神事にしたがうものが用いる礼冠の形です。
これに、ふたりの兄がえがかれています。
ふたりならんで祝祷するところから、「みんな」の意味が生じます。
「僉(みな)曰く」という用法があるらしく、
ほんらいは「神意を承る者の言がすべて一致する」という意味なのだそうです。
ふたりならんで祝祷するのが、僉(セン)です。
ふたりならんで舞楽するのが、巽(ソン)です。
僉は(セン)と音しますが、字統には、「金文に剣銘の剣を僉に作っており、古く剣の声であったのであろう」とありますので、ふるくは僉は(ケン)という音だったのかもしれません。

迎え結ぶ
僉 龠
「倹=儉」は《人部》に分類され、 「約也。従人僉声。」=「約す=迎え結ぶ、誓う。“人”に従い“僉(セン)”を音とする。」と 記す。http://mei2jikai.blog113.fc2.com/?tag=%E5%A7%93%E5%90%8D%E5%88%A4%E6%96%AD%E5%AD%97%E7%94%BB%E6%95%B015%E7%94%BB&newwindow=true
。“?(シュウ)=集まる”に従い、“?(ケン)=ワイワイとやかましい”に従い、“从(ジュウ)=従う”に従う。」と記している。
要するに、「?(シュウ)」と「?(ケン)」と「从(ジュウ)」から成りたつのが「僉(セン)」という漢字であると解説しているのである。
しかし、それは篆文(テンブン)で描かれた「僉(セン)」を解説するものであり、金文(キンブン)に描かれる「僉(セン)」とは異なっている
「僉(セン)」で中ほどに描かれているのは、“言”という字である。
“言”という字を並べて描くことで意見を交わすことを表し、さらに○(マル)を重ねて描くことで、意見をまとめて契(ちぎ)り=協定・誓約を結ぶことを意味しているのである。
協定・誓約を結ぶこと

誓約 龠
龠(やく)

「口(穴)三つ+侖(そろえてあわせる)
口(穴) 龠〔解字〕 会意。 「口(穴)三つ+侖(そろえてあわせる) ... ところが、『漢字源』を見る と、意味 によって「ふえ」のことを先に挙げて、〔字解〕では「口(穴)」と理解して「ふえを ...http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3110

「龠を合わして1合となしていた」ので、「龠」は、「合」を基準にして、〔2分の1〕になる量と定義されていた。また逆に、「合」は、「龠」を基準にして、〔2つぶん〕になる量と定義されていたわけです。しかし、これだけでは、その立方体が龠6つぶんの量になることはわからない。それがわかるためには、「2つぶんの素」は「合」があるからよいとして、これに輪を掛ける「3つぶんの素」の存在が必要です。


... サイコロ(立方体)の1角に集まる3つの面で構成されていますが、この容器に水を注いでも、3つの角の高さまでしか水は溜まらないので、水面のかたちは「正三角形」になり、 ... そんな彼のことを一言でいえば、圭の先端にあるようなミクロの探求者です。

圭の先端にあるようなミクロの探求者
龠+禾は和の異体字で、唐代の学者の説 では和の古字であるともいわれておりますが、 左側が口になっている隷書の「和」も きちんとあって、 後漢の字書『説文解字』では「口+禾(和)」と「龠+禾」を ...http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5364053.html
「口+禾(和)」と「龠+禾」を微妙に違うニュアンスを持つ別の字として区別して収録しています。
「口+禾(和)」
侖(そろえてあわせる)」。何本かの竹管 をそろえてあわせた笛を表す。 ※ 龠(音;ヤク、訓;ふえ) http://www.k3.dion.ne.jp/~masatono/every/kanzi/syousai_10.htm
そろえてあわせる
?(シュウ)=集まる”

>加わる。集まる。まじわる。
>厽ルイ(三本のかんざし) 「見参ケンザン」
参[參] サン・シン まいる ム部 解字 金文第一字は、三本のかんざしを頭髪に挿した人が 、ひざまずいている形。http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
解字 金文第一字は、三本のかんざしを頭髪に挿した人が、ひざまずいている形。第二字は、かんざしの玉が光ることを示す彡サンを加えた形。かんざしを付けて盛装した人が宮中などに参内しひざまずく形で、「まいる・もうでる」意となる。多くの人が行くので、加わる・集まる意ともなる。旧字は「厽ルイ(三本のかんざし)+人+彡サン」の形になり、新字体は旧字の厽⇒ムに簡略化され、参となった。
意味 (1)まいる(参る)。目上の人の所へゆく。宮中などへ行く。「参内サンダイ」「見参ケンザン」 (2)寺社などに詣でる。「参詣サンケイ」 (3)加わる。集まる。まじわる。「参加サンカ」「参集サンシュウ」 (4)くらべる。しらべる。「参考サンコウ」「参照サンショウ」 (5)人蔘ニンジンの代用字。「人参」 (6)「三」の代用字。
イメージ  「まいる・くわわる」 (参・驂)
       「同音代替」 (惨・滲・蔘)、 「その他」 (鰺)
鋤星
参宿(しんしゅく)、和名は唐鋤星(からすきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第 7宿。距星はオリオン座ζ星(三つ星の東端の星)。 星官[編集]. 主体となる星官(星座) としての参は、オリオン座のζ星、ε星、δ星、α星、γ星、χ星、β星の7つの星によって構成 ...http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%AE%BF
参宿の距星は、本来はオリオン座δ星であったが、歳差や恒星の固有運動のために明代頃には觜宿の距星を西に越えてずれ込んでいた。つまり、觜宿と参宿の順序が逆になってしまっていた。このため参宿の距星を別の星に置くなどの措置が取られるようになった。
參 ムムム
鋤星(すきぼし)
耜(すき)」の原字、 ひじを曲げた形・・・ム=角度 八進法では 0 から 7 までの八種類の 文字を数字として扱い数を表現 ... 穂で、旁の「ム」は耜( すき)の形で、耜を使って耕作 する人を表わしている。http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2911

唐鋤星とは? 〔唐鋤に見立てていう〕 二十八宿の参(しん)宿の和名。オリオン座の中央 部に三つ連なって並ぶ星。三つ星。三連星(みつらぼし)。参星(しんせい)。 http://www.weblio.jp/content/%E5%94%90%E9%8B%A4%E6%98%9F

しん せい [0] 【辰▼星】
① ほし。星辰。
② 五星の一。水星の別名。

天体の総称。ほし。星辰。2 昔、時刻を示す基準と なった明るい恒星。大犬座のシリウス星の類。3 中国で、五星の一。水星の異称。4 二十八宿の一。房(ぼう)。そいぼし。http://kotobank.jp/word/%E8%BE%B0%E6%98%9F
1 天体の総称。ほし。星辰。
2 昔、時刻を示す基準となった明るい恒星。大犬座のシリウス星の類。
3 中国で、五星の一。水星の異称。
4 二十八宿の一。房(ぼう)。そいぼし。


>「橐龠は、 即ち往来する呼吸なり、古人は喩 (たと) えて巽風となす」
>肺は五臓六腑の一番高い位置にあり、心臓を守るように配置されているところから、天子 に差し向ける衣笠 「華蓋・かがい」 と ... 古代の気功の資料、金仙正論には 「橐龠は、 即ち往来する呼吸なり、古人は喩 (たと) えて巽風となす」 とあります。

瓊瓊杵尊(ニニギ ノミコト)、http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
杵(きね)の原字。また 、きね形の木器は願い事を祈る対象(神)としても用いられた。しかし、午は十二支の7 番目の午(うま)に当てられた。「きね」の意味は音符に残る。http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/458801e945ede4eaa4f5f577211d4d99
(神)

「瓊、玉の美なる者なり」と注しており、 美しい玉という意味、また瓊のように美しいという修飾語として用いられる ...http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%93%8A
「赤玉也」は、「亦玉也」の誤りであるとしている。
亦とは、脇の下の象形字である。
意味腋、脇の下、(又、有、也と通用し)~もまた、また、(奕と通じて)大いに、という意味がある。〔説文解字・巻十〕には「人の臂亦なり」とある。http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BA%A6

「亦エキ」 <同じものが両方にある> と 「夜ヤ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/5481e8bcac629ea517eff26960f5741b

太陽が 月と同じ大きさに見えるのはまさに奇跡としかいいにくいと思います。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149354781?__ysp=5aSq6Zm944Gu5aSn44GN44GV44GM566h5a2U44Gu5aSn44GN44GV44Go5ZCM44GYLiDjgavjgao%3D

測地と地図目次を見る
蓋天説を述べた『周髀算経』などには「一寸千里の法」が説かれている。高さ8尺の周髀(ノーモン)の、夏至の日の南中の太陽による影の長さが、地上を南北に1000里移動するごとに1寸変化するというのである。(第一次)蓋天説では天地は平行平面と考えるので、この関係から、天地の隔たりや、観測地から夏至の日の南中の太陽の直下点までの距離を計算したりしている。南北の移動距離と影の長さの間の関係がこんなに単純でないことはもちろんであるが、古代に都の置かれた長安(ちょうあん)や洛陽(らくよう)など、北緯34~35度付近に限っても正しい値とはいえない。しかし、唐代に一行が大衍暦を編纂した際、南宮説(なんぐうえつ)を派遣して測量させた結果は、河南(かなん)地方の夏至のころの値としてはほぼ正しい。大衍暦には影の長さと太陽高度との関係表があり、これは三角関数のtan(タンジェント)の表とみなすことができる。一方、天の北極や太陽の高度そのものの変化と南北移動距離との関係は一定、つまり正比例するが、南宮説は天の北極の高度変化と南北移動量との関係を求め、各地の北極出地(天の北極の高度)すなわち緯度に相当するものを求めている。ただ、中国の場合、大地が球形であるとの観念がなかった。各地の北極出地の測定は、その後も郭守敬(かくしゅけい)らの授時(じゅじ)暦編纂の際などに、さらに大々的に行われている。
四角形の田だけでなく、現実的でない円・半円や環状の田https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A7%91%E5%AD%A6-1185265
中国の数学書の伝統的様式を備えた最古のものは「十部算経」の2番目の『九章算術』であるが、近年、それよりも古い『算数書』が古墳から発見された。書名が「算数」であって「算術」でなく(すなわち実用技術でなく学問と考えている)、『九章算術』と酷似する問題も多くみられるが(後述のように中国の数学書は問題集形式である)、『九章算術』と違い小項目形式になっている。『九章算術』は9章に分けられ、多角形や円・半円の面積計算や、平方根・立方根の計算、二~三元連立一次方程式・一元二次方程式なども扱われている。負数を正数と同等に扱う点などは同時代の西洋の数学よりも進んでいる。第2章「方田」で、四角形の田だけでなく、現実的でない円・半円や環状の田の面積を扱っているのは、この書がけっして実用だけのものでないことを示している。

田と似た形の用に変化
甫ホ・フ用部解字甲骨文は、田(耕作地)に苗や苗木が植えられている形で圃(はたけ) の原字。金文に至ってこの字は別字となった。上部は発音の一つであるフを表すため父 フになり、下部は田と似た形の用に変化した。
「甫ホ」 <苗や苗木を植えた耕作地>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/f50a49027a678661190740bd2c25d8ac

筒・・・津々

「聿」にしずくが垂れる・・・垂直?・・・端の地?
津々浦々http://www.kokin.rr-livelife.net/yoji/yoji_tu/yoji_tu_1.html
「聿」は本来は手で筆を持っている様子を示す「聿」にしずくが垂れる印である「彡」から成り、わずかなしずくを意味する。
これに水をあらわすさんずいを加えて、わずかに水のあるところ「浅瀬」などを意味するようになる。
浦は水+甫(音符)で、甫は芽生えをあらわす「屮」に田を合わせた文字。
苗を育てる畑の意があり、平らかに広がるという意味も持つ。
これに水がついて「浦」となり、水がひたひたとせまってくる岸、即ち、入り江や海岸ということになる。

住吉三神はオリオンの三ツ星 : ひもろぎ逍遥http://lunabura.exblog.jp/15412072/
「筒」とは「星」で底中上の三筒男は、オリオン座の中央にあるカラスキ星で航海の目標としたところから、航海をつかさどる神とも考えられる。
カラスキ星

日本古来の星座 - オリオン座を鼓星と呼んだのは有名です。すばるもです ...https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1014315085?__ysp=44CM44Gk44KK44GM44Gt5pif44CNLiDjgqrjg6rjgqrjg7Pluqcg44Kr44Op44K544Kt5pif
冬の星座で、おうし座のアルデバランを含めたヒアデス星団のV字型を横向きのため「半鐘の突っからがし」とかカシオペア座のW型の角度が違うのに注目して「角違い星」
竜骨座のアルファ星のカノープスが、日本からは南の地平線ぎりぎりにあって滅多に見えないことから これを見ると長寿になるとされたことから「南極老人星」と呼ばれる、七福神の寿老人のことでもある。
北斗七星と南斗六星の形が大小の舵にたとえられるので「北の大舵、南の小舵」と呼ばれるとか。
 
 

>于闐?・・・ワダ (ホータン)和田

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月23日(木)14時59分45秒
返信・引用
  >[354] 于闐(クゥタン・ホータン)」http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/354
エジプトの”wadaur”が、日本語のワダツミの”ワダ”の由来と説明されていました。 シルクロードの都市名:ホータンに当てた漢字の”和田”が、海に囲まれた日本に来ると、 海の意味の”ワダ”に当てられているのは面白いと思いました。http://asyura.com/0411/idletalk12/msg/194.html
英語の”water”の祖語となったヒッタイト語の”wa-ata-r”は、エジプトの”wadaur”に由来し、ウル語の ada (海)に行き着くという。
このエジプトの”wadaur”が、日本語のワダツミの”ワダ”の由来と説明されていました。

>ワダツミのワダの由来は書かれている。ウル語の ada (海)が エジプトに入り、wadaur ( w 海 ウル語で)となり、そこから wada が来たと言う。同じ 言葉が西のヒッタイト語(欧州語の祖語)に入り wa-ata-r となった。http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/bun052.htm

闐 眞(真)
真・・・鼎のなかに食べ物がいっぱい入っているさま
「真 シン」  <中身が詰まる>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/681d475fedeb03084ca2729aef9694bf
真[眞] シン・ま・まこと  目部
解字 金文は、「ヒ(さじ)+鼎(かなえ。煮炊きの器)」 の会意。鼎で煮炊きした食べ物を匙ですくう形で、鼎のなかに食べ物がいっぱい入っているさまを表す。その中身がいっぱいに詰まっていることから、「ほんもの」「まこと」の意味に仮借カシャ(当て字)された。篆文から眞の形になり、新字体は、さらに真に変化する。
意味 (1)まこと(真)。ほんとうの。「真実シンジツ」「真理シンリ」 (2)まったくそのままの。「純真ジュンシン」「真性シンセイ」 (3)ものの姿。「写真シャシン」
イメージ  「まこと(仮借)」 (真・槙)
       「中身がつまる」 (鎮・塡・嗔・瞋)
       中身がすみずみまで 「ゆきとどく」 (慎)

「いただき」(頭の上)
眞(テン)」 の形声。テンは転テン(回転する)に通じ、頭が回転するかたちで、頭が下になって倒れる、ころぶ意。また、頭が下になって地についた部分の「いただき」(頭の上)の意となる。

【瞋る】いかる. 怒って目をかっと見はる。相手をにらみつける

ゆきとどく
慎 シン・つつしむ  忄部
解字 旧字は愼で、「忄(心)+眞(ゆきとどく)」の会意形声。すみずみまで行き届いた心。愼⇒慎に変化。
意味 (1)つつしむ(慎む)。念をいれる。気を配る。「慎重シンチョウ」「謹慎キンシン」

中身がつまる
填  テン・ふさぐ  土部
解字 旧字は塡で、「土(つち)+眞(中身がつまる)」 の会意形声。穴などに土をつめること。ふさぐ・みたす意となる。旧字の塡⇒填に変化。
意味 (1)ふさぐ(填ぐ)。ふさがる。うずめる。 (2)みたす。「充填ジュウテン」「補填ホテン」「装填ソウテン」(中につめこんで装置する) (3)はめる。うめこむ。「填漆テンシツ」(彩漆をうめて飾る技法)
ふさがる。うずめる。・・・テン・・・点?



舶来の青銅鏡と王を巨大な填丘墓に葬る祭祀が. 登場し,次の古墳時代に移行してい った。https://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_japan/pdf/002_201611/06_history_japan_002_p10_12.pdf#search=%27%E5%A1%AB++%E5%A2%B3++%E8%A7%A3%E5%AD%97%27

古墳  国造り 司・・・

古 http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8F%A4
〔説文解字〕は、十+口による会意としている。その解釈について徐鉉は、注でたくさんの口によって前言を伝えていくとし、徐鍇は、注で古代には文字がなく口伝であることを示すとしている。ほかに十は年月のこと、世代のこととする説がある。〔部首訂〕は、口声の形声で、十が過去という意味を持つとしている。金文の字形は十と異なり、干や毌の形をとることから、形声で毌声、魯の転注とする説がある。白川静は、口は祝器で、十は干(たて)であり、祝器を兵器で封緘するという字で、そこから前例や旧慣という意味があるとする。
干や毌の形をとることから、形声で毌声、魯の転注

干とはhttp://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B9%B2
十干、(竿と通じて)さお、(奸と通じて)狂う、(旱と通じて)日照り、(箇と通じて)個数という意味がある。

于闐?


芔(卉)・・・オリオンの三ツ星? 地上での点?

「賁フン」 <ふき出る>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/829d327aa24eaed5cab9ddad278a9a80
解字 篆文は「貝+芔キ」の会意。芔は草の芽がいっせいに出る形。賁は、貝がぱっと水管から水を出す意で、「ふき出る」、噴き出たものが「盛りあがる」イメージを持つ。現代字は上部が卉に変化した。
イメージ    「ふき出る」 (噴・憤)
         噴き出たものが「盛りあがる」 (墳)
盛りあがる
墳 フン・はか  土部
解字 「土+賁(盛り上がる)」 の会意形声。大きく盛りあがった土の墓。
意味 はか(墳)。土を盛り上げてつくった墓。「古墳コフン」「墳墓フンボ」「円墳エンフン」

エジプト、ギザの台地に勇姿を見せる大ピラミッドは、これまで約4500年前にクフ王が、 奴隷を使役して建設した王墓であるといわれてきた ... そこで、オリオン座の3つ星の写真 とピラミッドの写真を重ね合わせてみると まさしく、ピッタリと重なる。
古代人は何を伝えようとしたのか?ギザの大ピラミッドの謎https://matome.naver.jp/odai/2133383278731302701
「ピラミッド」とは、ギリシア語で「ピラミス」という三角形のパンのことを示していた。エジプトではピラミッドを示す言葉はいくつかあったようだが、一例では「メル」といい、古代エジプトでは象形文字ヒエログリフで「△」と示された。

白虎のオリオン、太陽神の母シリウス、住吉筒男のウシバスhttp://hiro-san.seesaa.net/article/250596646.html
オリオンに右上におうし座、左上にふたご座をすぐに見つけることができる。オリオンの三ツ星を右上に延長すると、牡牛の目にあたるアルデバランが赤く輝き、さらに延長すると7人娘のプレヤデス(すばる)がぼんやりと光っている。左下に延長すると全天で最も明るいシリウスが煌々と輝く。狩猟の巨人オリオンに2匹の犬が連れ添っているというお話なので、オリオンの左上角のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンで、くっきりと冬空の大三角形を構成する。
オリオンが右手で高く掲げるのは剣、棍棒、手鎌とバリエーションがあり、前に突き出す左手は弓のときもあれば、牡牛の角を防ぐ盾の場合もある。いずれにせよ、オリオンはスペインの闘牛士のごとく、牡牛と戦っているのだ。
オリオン座の形を「狩猟の巨人」と吹き込まれるとそのように見えるだけで、世界各地の見え方はさまざまだ。別のギリシャ神話ではこれを牛の皮を剥いで広げた姿とする物語りもある。エジプトでは船にのるオシリス神だ。マーシャル諸島ではタコ、ボルネオ島では動物に仕掛けるワナ。ペルー(インカ)では4羽のハゲタカに食われる囚人。ブラジルではワニ、カメとみる部族もある。中国では周辺遊牧民の来襲から農産物を守る守護神・白虎の姿となっている。
「狩猟の巨人」
狩猟・・・
狩り・・・甸(かり)
Re: 銅鐸発見http://8220.teacup.com/toraijin/bbs
五服図の示す中華世界
古代中国人の世界観では「天円地方」といい、天は円いが、地面は四角いものとされている。四角い天下の構造は五層構造からなると考えられてきた。図1の「五服図」は『尚書』の「禹貢篇」の記述を小倉芳彦が図解したものである
狩猟生活・・・狩り 刈り・・・ 古代測量http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/188 丹生、桜、装飾古墳。
幾何学文は蛇にまつわる
津神・・・だった中臣(藤原)氏・・・
聿: 肁 チョウ/ジョウ zhao4
<はじめてひらく=肇><始め><謀る>
1076/09451
<解字(蜻蛉)>
聿は、「文章・書」のこと。
片開きの戸棚の中に神からの言葉が書かれた書が入っていて、それを見ることを「はじめる」こと。
「はじめる」・・・


「畺キョウ」<さかい> と「彊キョウ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/25c59cce0a4b47ed395585da67b7043a
解字 田と田の上下と中間に線をいれて、田(土地)の境界を示した形。疆キョウ(さかい)の原字。
意味 さかい。
イメージ  「さかい」 (彊・疆・橿・薑)
       「同音代替」 (僵)

玉ギョク・たま玉部上が玉、下が王解字甲骨文字は、三つの玉(宝石)を紐で貫きとお した形の象形。
天子(玉座)
国[國] コク・くに  囗部http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/db1c1fbabccd396af56419b305b07367
解字 新字体は、「囗(かこい・領域)+玉(天子・玉座)」 の会意。玉座についている天子が治める領域の意。旧字体は、「囗(かこい)+或ワク(区切られた地域を武器で守る)」 の会意で、武器で守られた大きな囲い(=くに)の意。
武器で守られた大きな囲い・・・


「鬥トウ」 <二人がたたかう>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/36fe7e59450b8be68b16d37cc1d4204c
解字 甲骨文は髪を振り乱した二人の人が手を出し合って闘うさま。篆文は向き合う二人(略体)の間に二つの手を入れたかたち。現代字は、向かい合う人⇒タテの二線、二つの手⇒王王に変化した鬥になった。意味は二人の人が、たたかうこと。
意味 たたかう(鬥う)。向かい合ってたたかう。あらそう。
参考 鬥トウは部首「鬥たたかいがまえ」となる。文字の構えとなり、たたかう意味を表す。主な字は以下のとおり。鬨コウ・とき(鬥+音符「共キョウ」、鬮キュウ・くじ(鬥+音符「龜キ・キュウ」)
イメージ 「たたかう」 (鬥・鬧・鬪)
新字体は、旧字の鬥⇒門に変わった闘になった。新字体は音符「豆トウ」に収録している。

鬥:たたかう鬦鬧:さわがしい 鬨:とき勝ち鬨鬩:せめぐ鬩ぎあい鬪:たたかう鬮:くじ鬫:?:鬭:< ... 区-區多くのサイ( 祝詞を入れる器)を隠して置く所 .... http://blog.goo.ne.jp/kanji-circle/e/5e31e2fca36007c99af568a2517bdf09


「告コク」 <牛を神にささげて願いを言う>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/027b9f5e0de6870a934940b97f659fdd
告 コク・コウ・つげる  口部
解字 「牛(神にささげる牛)+口(つげる)」の会意。牛を神にささげて、願い事を神に告げること。新字体(告・造・酷・浩)は「牛」の下が突き出ない。ここで神にささげる牛は柵で囲まれ、「古代文字の牢」(牛の音符参照) にいる状態だったのではないだろうか。
意味 (1)つげる(告げる)。知らせる。「告白コクハク」「通告ツウコク」「告示コクジ」 (2)うったえる。「告訴コクソ」「被告ヒコク(うったえられる人)
イメージ 「つげる」 (告・造・鵠)
       神にささげる牛を柵で囲うので牛は「動けない」 (酷・梏)
      「同音代替」 (浩・窖・皓)
つげる
造 ゾウ・つくる  之部
解字 「之(ゆく)+告(つげる)」 の会意。神のところに「告げに行く」が原義。告げた結果、神意によって「事がなる」意を生じ、ものを始める・造る意が生じた。

告(つげる)・・・警告用の銅鑼・・・刁?

神の言葉を伝える預言者https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q107629065?__ysp=6aCQ6KiA6ICF44Gf44Gh44Gv44CB56We44GL44KJ44Gu6KiA6JGJ44KS5rCR6KGG44Gr5ZGK44GS44KL
預言者とは元々ユダヤ人を救おうと神ヤハヴェーの言葉を授かった代弁者たちです。 ... 新しい事柄を告げるという意味での預言は1世紀末でお休みとなりました。 ... 預言の 賜物」とは神からの新しい事柄を伝達する資格や能力のことです。

コーラン、トーラ、聖書にある預言者をはじめ、神の行為はすべて、世界の一角で発生 した。https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=10151945662941278&id=206715976277
トーラ・・・「刁」は「寅」・・・つじつまが合わない・・・はなれた刁

「刁」は、十二支の「寅」に 宛てた字。http://moriyuzi.dreamlog.jp/archives/cat_10429.html
①「刁斗(ちょうと)」として、「中国で、古代に軍隊で使われた銅器。昼は鍋として、夜は警戒用の銅鑼(どら)として使われた」とある。
②「刁刀(ちょうとう)」・・「刁」と「刀」は、字形がにていてまちがいやすいことから、「文字の誤り。また、まちがいやすい文字」とあった。
「寅」
寅イン・とら宀部解字金文は、「矢(や)+?(両手)」の会意。両手で矢柄の曲がりを正し まっすぐのばす意。篆文は、宀(やね)を付けた形になり、現代字は寅へと大きく変化した 。
「寅イン」 <まっすぐのびる>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/1d28d272a1e7b91bc845852b51044261
曲がりを正し まっすぐのばす意。

「童ド ウ」 <わらべ>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ca2d42b6ed098b0d210a1792b8163335
「撞木シュモク」(鐘などをうつT字形の棒)「撞着ドウチャク」(①つきあたる。②つきあたって、くっつく=つじつまが合わない)
つじつまが合わない・・・はなれた刁

「つりがね星」. です。お寺の鐘 をイメージ. した星座です。西洋の星座. では、おうし座の牡牛(お. うし)の顔の部分に ...http://astr-www.kj.yamagata-u.ac.jp/~shibata/yamashin/302-gera.pdf#search=%27%E3%80%8C%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%AD%E6%98%9F%E3%80%8D.+%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%E3%81%8A%E5%AF%BA%E3%81%AE%E9%90%98%E3%82%92%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%27

釣鐘星の用語解説 - おうし座の代表的な散開 星団であるヒアデス星団のV字形を,釣鐘の形に見立てた和名https://kotobank.jp/word/%E9%87%A3%E9%90%98%E6%98%9F-99546


象形、舌がぶら下がった鐘。
1.古代の軍事道具。鍋と警告用の銅鑼とを兼ねる。
呉音、漢音: チョウ(テウ)https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%81
チョウ(テウ)・・・
てう
呂大鼎九:ょりいたいてうゅき. 鼎を含む ...http://kanji.quus.net/jyukugo3001/idiom25458.htm
てい【鼎】

九鼎(きゅうてい)は、古代中国における王権の象徴。 鼎(かなえ)は鍋釜に相当する 古代中国の三本足の金属器具で祭器としても利用された。伝説によれば夏の始祖禹王 が九州(中国全土)に命じて集めさせた青銅をもって鋳造したものという(史記・封禅書) 。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%BC%8E
鼎(上海博物館)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Liu_Ding.jpg

甲骨文におけるサイhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%8F%A3-oracle.svg

原初の文字と本来の意味から離れた解釈をつけている例が少なからずあり、(サイ)を含む文字系列に対して訂正が必要としている。他にも「阜」が従来小高い丘の形とされていたのを、白川静は神梯の形としている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4_(%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%AD%A6)
丘の形
険 ケン・けわしい  阝部
解字 旧字は險で 「阝(丘)+僉(セン・ケン)」 の形声。センは尖セン(とがる)に通じ、先が尖ったけわしい丘をいう。発音はセン⇒ケンに変化。新字体は、險⇒険となる。
嶮?(さが)?し
はしだての【梯立ての】
[枕]床の高い倉にはしごをかける意から、「くら」「嶮?(さが)?し」、また「くら」の音変化「くま」にかかる。「―倉梯山?(くらはしやま)?は」〈...https://dictionary.goo.ne.jp/jn/175964/meaning/m0u/


13. 室(しつ)宿~ペガスス座西部、ぺガススの胴の部分。
    古くは祭祀や儀礼の行われる神聖な場所を、後には天帝の宮殿・軍の糧食を入れる倉庫を表した。
【北方玄武】http://ctobisima.blog101.fc2.com/?m&no=233
17. 胃(い)宿~おひつじ座。五穀を収める、天の厨房の倉を表す。倉庫を司る。

室宿(しつしゅく): 日本名:はついぼし: 距星:ペガサス座α: 吉:神仏祭祀、祈願 、婚礼、船乗り、造作、戦、狩猟など: 凶: ... http://saijigoyomi.com/28shuku/
胃宿(いしゅく): 日本名:えきえぼし・こき えぼし: 距星:おひつじ座35: 吉:就職、婚礼だが一般にはあまり用いない日 ...

後3世紀には苻 (ふ) 氏・呂氏などの有力氏族が台頭、五胡十六国時代に、 前秦・成漢・後涼などを建国。2 二十八宿の一。東方の第三宿。天秤 (てんびん) 座のα ( アルファ) 星を含む。ともぼし。氐宿。https://dictionary.goo.ne.jp/jn/149008/meaning/m0u/

氐とは、以下のことを表す。 氐族 - 中国の民族の一つ。チベット系といわれている。 氐宿 - 二十八宿の一つ
氐( テイ)』http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B0%90
根底、至る、という意味がある。

神の降り立たすところ
梯(テイ)
神梯
 神の陟降する神梯の前はいわば神人の相交わるところであると白川静先生がそう分析しています。つまり、聖所を意味します。
 ここに「鬲」をおいて神人の境とし、両者を隔てることを「隔」という字になります。隔てることは「神」と「人」との間に行うのが、原初の意であります。そこに「余」を呪器として加えるのは「徐」字であるが、それは階除(階段)の意にも用い、祓除の意にも用いられたのであります。
 天上からこの神梯を伝わって神の降り立たすところ、そこが「地」であり、「地」字が表す原初の概念はそこにあります。古くは「墜」とかかれ、それが正字であり、上から来るのを意味します。この「豕」は「犬」を意味します。この解釈を裏付けるには、次のことを考え合わせるとよいでしょう。
 「アヌンナキ」とはシュメール語で「天より降り来たる者」を意味する言葉であります。そして、ヘブライ語で書かれた『旧約聖書』の原典では「アヌンナキ」を「エロヒムElohim」と訳しています。
 『旧約聖書』の冒頭の言葉、「はじめに、神は天地を創造された」とあるが、ここの「神」に当たる言葉はこの「エロヒム」であります。これも直訳すると「天から降りた者」を意味します。
「陡」と「降」
 神の降臨には、神梯を必要とします。甲骨文や金文において、その神梯を示すものは「阝」であるが、「阝」は「梯子」の形に釈されている字である、「陟降」の二字は升降に用いる階梯を表す字であります。
ト辞に、https://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/13906697.html?__ysp=56We5qKv
 「貞ふ、陟降せんか。十月。」(『白川静著作集 2』p280)
 いわゆる、王は神意を問う、占トの内容によく使われている字であります。すなわち、「阝」は神の陟降する神梯を意味する符号であります。
貞(テイ)

鼎 アリダード 貞 テイ <鼎による占い>http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/4247
鼎(測斜儀)による平板測量http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3664
二段の鼎?・・・アリダード! ... こしき(甑・鼎・アリダード)に ちり(地理)が積(目論見モクロミ)もり、かま(缶・瓶・・・甕棺?・・・・古墳?)に魚(キリスト教徒?・・・・・測量士?)がわく意。 ...http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2936
鬲(れき)
三本の空洞の足が付いた蒸し器)
鼎(かなえ)に似た三本の空洞の足が付いた器、その足に水を入れこれを沸かして 煮炊きする{図}②隔てる. 【鬳】 鬲10+6=総画数16 U+9B33 [ゲン、ゴン/]. ①鬲(れき、 三本の空洞の足が付いた蒸し器)の一種. 【?】 鬲10+6=総画数16 U+29C31 【鬺??】 ...http://ksbookshelf.com/DW/Kanjirin/Kanjirina7.html
鬲」字は中国古代の炊具。火で くべることができるように三足になっており、「鼎」に似る。

食器(鼎、鬲、甗、簋、豆).
カナン 河南http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1269

方鼎 ... アリダード 鼎 古事記 成立当時すでに笥「竹+(音符)司(すきまがせまい、中の物をのぞく)」。http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1269
角川文庫の古事記では、ニニギの言葉が此地(ここ)は韓国に向ひ 笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。
かれ此地(ここ)ぞいと吉き地(ところ)となっています。

カナン 河南http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1269
アリダード 鼎 古事記成立当時すでに
笥「竹+(音符)司(すきまがせまい、中の物をのぞく)」。篠笥(ささき)http://homepage3.nifty.com/giboshi/kaijitbl011.htm
景行紀
アリダードを覗いたことがあった私は、 地図帖で韓国岳と笠沙の岬を結ぶ直線 を引いたとき、. 笠沙の岬の「笠=竹立」が直線の求め方を表わしていると感じたわけ です。 写真家の小川氏が、大和の風景をカメラで捉えているうちに、 古代遺跡を 結びつける ...http://www.geocities.jp/yasuko8787/6-mizutani.htm
古事記の次のくだりは、古代に正確に東西を割り出すさい、
  太陽による棒の影を用いたことを物語るものである(景行紀にも同様の記事がある)。
免寸(とき)河の西に一つの高樹ありき。その樹の影、旦日(あさひ)に当れば、
淡道(あわじ)島に逮(およ)び、夕日に当れば、高安山を越えき。

碑文の中央の次のような文字を見たとき、ピタゴラスの数三,四,五 と「品」という字の三つの四角形から、私はすぐさま三平方の定理を感じたのです。http://www.geocities.jp/yasuko8787/6-nakasone.htm
万葉集にも三平方の定理を想起させる歌があることが分りました。
その歌は、伊勢物語の23段の歌を連想させる、巻2の三方沙弥の歌3首です(後述)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

朝鮮人白丁と日本のエタが合流した組織がヤクザ

 投稿者:成 太作  投稿日:2017年11月20日(月)19時34分39秒
返信・引用
  在日朝鮮人(白丁)と組んで女子供を虐待するならず者、エタ(部落民)と左翼マスコミ!

 ヤクザとはエタ非人のならず者をまとめあげるために発生したものでありエタ独自の文化である。
近代の部落差別の最大の理由は屠殺ではなく、ヤクザ=エタ エタ≒ヤクザの事実にあるのだが、
「神道の穢れが原因だ!」「天皇制が原因だ!」「こんな陰険な差別は日本にしか存在しない!」
等とマスコミや知識人は先を競って嘘をつき、エタヤクザの日本人への敵意や憎しみを煽り立てた。
 在日朝鮮人は李氏朝鮮時代は白丁という奴隷以下の最下層の身分で屠殺業に従事していた。
朝鮮には天皇も神道も無いが白丁差別という部落差別そっくりなものが存在するのである。
陰険、気性が激しい、暴力的、屠殺業、賤民、共産主義が好き、等の共通点があることから
エタと白丁は親しい関係となり、ついにはエタのヤクザ、偽右翼にも白丁が合流するようになった。
 その後1973年頃から創価学会の韓国系の池田大作がヤクザを使った快楽殺人を始めだした。
集団ストーカーと言われているが、実際にはヤクザに脅迫された第三者を使った虐待に過ぎない。
この犯罪に協力したのがならず者のエタである。敵意や憎しみを煽る反日教育反日報道の結果、
彼らは迷うことなく女子供を長期間虐待する異常で賤しい犯罪に協力してしまったのだった。
 そんな異常で賤しい犯罪がバレた時の対策として利用されたのが従軍慰安婦強制連行説だった。
この嘘を事実にできれば「女子供に先に手を出したのは日本だ!」と犯罪をある程度正当化できる。
そうなれば日本国憲法も部落利権も在日利権も安泰である。エタ白丁左翼の少数支配も続く。
 エタが全面協力したのは言うまでもない。河野談話を出させたのはエタの宮沢首相である。
左翼マスコミもエタ白丁に協力。白い服で泣き喚く元慰安婦の映像を垂れ流したのはもちろんのこと、
大臣の発言、靖国参拝、歴史教科書等にも言いがかりをつけて狂ったように大騒ぎした。
そしてことあるごとに「日本は韓国に謝罪も賠償もしていない!」「在日は不当な差別を受けた!」
「在日は強制連行の被害者!」「関東大震災でデマが流れて朝鮮人虐殺!」等の嘘を連呼して広めて
「反日感情は日本の責任」「日本人は犯罪者であり何をされても文句を言えない」という意識を広めた。
現在のエタ・外国人・共産主義者・宗教・犯罪加害者天国憲法、日本国憲法を守るためである。
 左翼マスコミの異常な犯罪的反日報道の結果、ヤクザ(エタ6割白丁3割)は煽られて自分たちは
正しいと思い込み、嬉々として日本の女子供を虐待(集団ストーカー)したのだった。
人権を唱える日本の左翼はエタ白丁と組んで、積極的にヤクザによる日本人虐殺に加担したのだった。
 私たちはエタ白丁左翼の犯罪者を全員刑務所へ入れなければならない。
それこそがエタヤクザや白丁ヤクザに殺されたり人生や尊厳を奪われた被害者への唯一の慰めとなる。

主なエタ
宮沢喜一 河野官房長官に河野談話を出させた。韓国の大恩人。でも何故かほとんど批判されない。
野中広務 反日暴言を繰り返す。周囲の反対を押し切り北朝鮮への食糧援助を強行。北朝鮮の大恩人。
橋下徹  父親がヤクザ。やしきたかじん(在日)を師匠と慕う。
前原誠司 在日の婆さんと家族ぐるみの付き合い。北朝鮮で歓待されて美女と立ちバック写真。
松本龍  宮城県知事を叱責した際、マスコミを「絶対書いたらその社は終わりだから」と脅迫。

※関東大震災で朝鮮人が蜂起して放火や略奪をしたことは当時の『朝日新聞』などが報じている。
※在日白丁は終戦後に朝鮮進駐軍と自称して強姦略奪占拠を行った。今も奪った土地に居住。
※朝鮮人徴用工(3万人)の問題は1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決済み。
 

乙巳の日は天一天上の13日目

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月18日(土)14時49分48秒
返信・引用
  ユダヤ流浪民の東進
日本語ユダヤ起源説⑬ユダヤ由来の苗字と地名 https://ameblo.jp/prconsultant701938830/entry-12163319508.html
古代イスラエルのユダ族(またはエフライム族)を祖とする日本最大の豪族であった秦氏、そしてその子孫と思われる秦、旗、波田、羽田、畑、端、幡多、波多、畠、幡、旛、波多野、秦野、畑野、幡野、籏野、旗野、畑中、畑山、木幡、小畑、古畑、降旗、古旗、津秦、中畑、大畑、高畑、高畠などの苗字についてはすでに紹介した。ユダ族は、ダビデ王を起点としたユダヤの王族である。今日はそれら以外の苗字、地名をご紹介したい。
「ひえだ(稗田、日枝、冷田、日江田)」「ひゅうが(日向)」「八重(やえ)」もユダ(族)から来ているとされる。日枝神社もユダ族の神社ということになる。

英語でユダヤ人を指す「ジュー(Jew)」も「ユダ」から来ている。さらに「ひえだ」から派生したのが「飯田」「用田」「夕田」「大田」「岩田」「岩手」「岩戸」ではなかったか。
古代イスラエルから司祭の役目を司るレビ族であるが、「良比(らび)」「日比(ひび)」はその末裔であるとされる。「賀茂」もレビ族と言われる。鰐、和仁、和邇、鰐川、鰐口、鰐洲、鰐石、鰐田、鰐部など「わに」のつく苗字は、北九州八幡付近に存在したとみられる伊都国の鰐(バニ)族の子孫と言われるが、鰐族はレビ族の末裔と考えられている。鰐というが、日本列島に実際にワニがいたわけではない。どこか南方から輸入した言葉ではなかったか。
卑弥呼時代の日本のガド族の長は「那古(なこ)」と言ったが、千葉県館山市に「那古」という地名が残っている。「なごや(那古屋、名古屋)」も同じ由来。千葉県の「上総(かずさ)国」、千葉県銚子市の「三門町」、東金市の「御門(みかど)」、北海道の「門別(かどべつ)」、山口県の「長門(ながと)」、富山県の「久戸(ぐと)」もガド族から来ているのではないか。天皇家の出自については諸説あり、エフライム族であるという説と、初代神武天皇はエフライム族だったが、日本に渡来した10代崇神天皇以降は系統が入れ替わりガド族になったという説がある。天皇のことを「ミカド」というが、これはヘブライ語で「ガド族の出自」という意味であるというのがその論拠である。
なお、旧約聖書によれば、ガド族の子孫からゼポン人の氏族が出たとされる。そしてこの「ゼポン」がなまって中国語の「日本(ジーベン)」となり、それが日本語の「ニッポン」や英語の「ジャパン」になったのではないか。
そしてダン族。「だん(弾、団、壇、弾、談、旦)」「たん(谷)→たに」という名字は、ダン族の末裔である可能性が高い。レビとダンを一緒にして「日比谷(ヒビタン→ヒビヤ)」。
次にイサカル族。「飯盛(いさかり)」「井坂」「坂」「石狩」「然別(しかりべつ)」はイサカル族に由来すると考えられる。青森の地名や苗字である「津軽(つがる)」もイサカルの「サカル」を取ったらしい。長野県の「軽井沢(かるいざわ)」も「イサ」と「カル」が倒置したものと考えられる。
ナフタリ族であるが、「田利(たり)」「ひなた(日向、日名田)」がその影響。「南部(なんぶ)」もナフタリ族の「ナフ」を取ったものと思われる。「新田(にった)」は古くは「にふた」と読まれており、「名久田(なくた)」と合わせて、ナフタリ族の流れと思われる。「ナフタリ」とはもともとヘブライ語で「イノシシ」の意味である。青森の「ねぶた」も「ナフタリ」から来ているらしい。
マナセ族だが、「まなせ(曲直瀬、真瀬、間名瀬)」「まの(真野、間野、目野)」はマナセ族とされる。福岡の「宗像(むなかた)神社」であるが、これは「マナセ」と「カド」と一緒に祭った神社ではないか。
また古代、朝鮮半島南部の任那(みまな)に日本府(大和朝廷の出張所)があったというが、この「みまな」は「マナセ族の出自」という意味である。マナセ族は北東インドを経て渡来した可能性が高い。
薩摩島津家の家紋の十文字は、ルベン族の紋章と同じである。源頼朝とルベン族との間にもうけられた男子が島津氏となったのではないかと言われている。「阪(べん、さか)」もルベン族の末裔と言われる。
エフライム族。「良井(らい)」はエフライムの「ライ」を取ったとみられる。ユニコーンはエフライム族のシンボルである。「足利」「足尾」「足柄」「足寄(あしょろ)」「芦別」「尻別」「網走」「奥尻」「橋(はし)」などの地名・姓名はアシェル族から来ていると言われる。
また、「紅谷」「紅屋」「紅山」「屋見(やみ)」はベニヤミン族の末裔と言われ、「島(しま)」「住吉(すみよし)」「清水(しみず)」はシメオン族。住吉神社もこの系列である。また、「掘(ぼり)」「巽(すぶる)」はゼブルン族の子孫であると言われる。ゼブルン族はインド東部から航海して鹿児島に上陸したと言われている。
北海道の胆振(いぶり)国はヘブライ(人)、「渡島(おしま)国」はシメオン族、石狩国はイサカル族、釧路国はアシェル族、日高国はユダ族、十勝国はガド族、根室国はエフライム族、留萌(るもい)支庁はルベン族、と見事に古代イスラエルの部族ごとに配置されている。
アブラハムとはすべてのユダヤ人の祖である。

日本神道に古くから伝わる「神道五部書」中に「阿波羅波命(アハラハノミコト)」が出てくるが、これは「アブラハムのみこと」「アブラハム王」のことだと思われる。また、宮崎県の油津(あぶらつ)」、山形の油戸(あぶらと)、青森の油川(あぶらかわ)、福岡県の油山(あぶらやま)などはすべて「アブラハム」に由来するのではなかろうか。日本全国に「油」のつく地名は84か所あるという。「油(あぶら)」という言葉自体もここから出ているとも考えられる。いずれにしても、「油」のつく姓名・地名はこの由来である可能性が高い。
アブラハムの息子は「イサク」といい、その子孫がイサク族となった。鹿児島県の伊作(いさく)や全国各地にある「一色(いっしき)」はそこから来ていると考えられる。ヨセフはユダヤ人の祖であるヤコブの子であるが、「良須(よす)」「ひよし(日吉、日義)」はヨセフにちなんだと言われる。
「室(むろ)」「御室(おむろ)」はイスラエル北王国の首都ソムロンから来ていると言われている。「袋(だい、ふくろ)」はザブダイ族(ユダの支族)の由来と思われる。
それから以下の苗字はすべてそのままユダヤの苗字から来ていると思われる。「やない(柳井、箭内、矢内、梁井、谷内)」「いたい(板井)」「たや(田谷、田屋、多谷)」「さぎい(鷺井)」「しま(島)」「勝」(カッツ)「もりや(守屋、守谷、森谷、森屋)」「つりや(釣屋、釣谷)」、「宇治」、「秋葉」「吉屋」「三木」「菅(かん)」「古田(ふるた)」(フルダ)「子門(しもん)」「うるま(閏間、宇留間、漆間)」(ウルマン)。
以下の苗字はヘブライ語の意味を持つ。「山井」は「水夫」、「野井」は「庭」、「田丸」は「ナツメヤシ」、「砂井」は「リス」、「阿南(あなん)」は「雲」、「有江(ありえ)」は「ライオン」、「作内(さくない)」は「ペリカン」、「野賀」は「金星」、「あまみ(奄美、天海、天見)」は「大衆的な」、「渥美」は「自分自身」、「きた(北、喜多、喜田、木田)」は「教室」、「三田」は「ベッド」、「三井」は「抽出」、「あらい(荒井、新井)」は「一時的」、「とだ(戸田)」は「ありがとう」、「いかり(碇、猪狩、伊刈)」は「主要の」、「かいつ(海津)」は「夏」、「しば(芝、柴)」は「理由」、「松井」は「ありふれた」、「いとう(伊藤、伊東、井藤)」は「彼と」、「棚井」は「条件」という意味がある。さらに「羽村」「小野」「ささ(佐々、笹)」といった苗字は、どうやらヘブライ語の地名から来ているらしい。

十部族はなぜ800年も住んだ中央アジアに別れを告げて東進したのか。
日本語ユダヤ起源説④驚くべきユダヤ流浪民の東進 https://ameblo.jp/prconsultant701938830/theme2-10085364786.html
イスラエルは紀元前930年頃、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。北のイスラエル王国は紀元前722年、(現在のイラク周辺で強大になった)アッシリア帝国に征服され、捕囚となって連れ去られ、その後東方のアジアのどこかへ離散していったとされる。この流浪の民を「イスラエルの失われた十部族」と呼ばれる。なぜ「失われた」なのかと言えば、その足跡がはっきりとは分かっていないとされているためだ。そのため、それが現在でもユダヤ人たちの大きな心の傷となって残っている。同様に、日本人がいつ、どこから日本列島にやってきたのかも、実は大きな謎である。
それまで湖も森もあって豊かな土地だった中央アジアのタクラマカン砂漠周辺では、紀元前2世紀から紀元2世紀にかけて地球規模で起こった気候変動により、湖が干上がり川には水がなくなり、果樹園は枯れていったことが知られている。アイデルバーグ氏は、その気候変動による乾燥化が原因だと推測する。「タクラ・マカン」という砂漠の名称も、ヘブライ語で「廃墟となった所」を意味する「ティクム・カコム」がなまったものだという。大規模気候変動で廃墟化した土地を指していると思われる。そして十部族の一部が東方を目指し旅に出た。
しばらくして中国南部(現在の河南省)の開封に到着、一部の者が開封に住み付いた。紀元前2世紀~紀元3世紀の漢の時代のことである。

「ヤマト」「ヤー・マト」(ヘブライ語で読めばヤハウェの民、神の民)
ヤー・マト・・・神・マト・・・

海へび座νhttp://tobifudo.jp/butuzo/28shuku/28s26.html
【 張宿(ちりこ) 】女主人星(女大将星)。 ◇牡牛座に属する四 等星。六星よりなる。星象は杵の如し。インド名はプールヴァ・ファルグニー。 ◇主神:瞿 那律耶。…善徳の神。 ◇3大美人星の一。 獅子宮の影響を受けて、“勇猛果敢”。
女大将星

柳宿・基本性格 [27宿曜-基本性格]
単なる大将星では なく「反逆の星」としての大将です。http://renai-uranaigossip.blog.so-net.ne.jp/archive/c2304444094-1
「善に行けば徹底的に善人に。悪に行けば徹底的に悪人に。」

X(指揮杖印)

古代、風を送ることで「神や霊を 仰ぎ寄せる」ことを意味していた。https://kamon.myoji-yurai.net/kamonDetail.htm?kamonName=%E4%B8%B8%E3%81%AB%E8%BB%8D%E9%85%8D%E5%9B%A3%E6%89%87

夜が明け 初めて東の空が赤らんで来た頃、牡鹿を誘い寄せる鹿笛を吹き鳴らした ところ、俄かに 東の空が光り輝いたので驚いて仰ぎ見ると、大蛇が口より火焔を ...... 蛇神は天地創造 にもよく出てきますね、アボリジニの虹の蛇、シュメールのティアマット、


中国の龍神信仰も道教の「母性的性格」「水の宗教」としての性格と無関係ではないだろう。老子は「上善は水の如し」と言い、究極のものを「玄牝」(神秘な母性の働き)と呼ぶ。https://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/40025509.html?__ysp=5pel5pys44Gu6JuH5L%2Bh5Luw44Gr44Gk44GE44GmIOODhuOCo%2BOCouODnuODiA%3D%3D

エジプトの蛇信仰は王家を守護する コブラの女神ウラエウスと邪悪な蛇アポピスに代表される。 ..... バビロンのティアマト、 エジプトのアポピス、カナンのバアルの兄ヤム、日本の八岐大蛇、皆そうである。
中間考察 ② 神話における牛と蛇の役割 https://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/40025509.html?__ysp=5pel5pys44Gu6JuH5L%2Bh5Luw44Gr44Gk44GE44GmIOODhuOCo%2BOCouODnuODiA%3D%3D
ギリシャや小アジア、エジプトなどの東地中海からイラン、メソポタミアにかけての広い地域で神話の中に「牛と蛇の確執」と表現できる普遍的なテーマが見られると言われる。
また中国や日本の神話では牛はあまり登場しないが、龍や蛇が非常に大きな役割を演じている。
これを太陽族(鳥、牡牛)と太陰族(龍、蛇)の二大トーテムとまで考える人もいるようだ。そこまで行かなくてもこれが世界の神話の中で多く現れるモチーフである事は否定できない。

ティアマト(tiamat)は、メソポタミア神話(シュメール、アッシリア、アッカド、バビロニア) における原初の海の女神。淡水の神アプスーと交わり、より若い神々を生み出した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88
きらきら輝くものとして描写される
女神といっても、神話におけるティアマトは後に誕生する神々と違って人の姿を模しておらず、異形の姿を取ったその体躰は現在の世界を創る材料にされるほど巨大で、「大洪水を起こす竜」と形容された[1]。ほかにもいくつかの典拠は彼女をウミヘビ、あるいは竜と同一視し[6] 、以前にもその姿はドラゴンであると考えられていたが、神話や関連文献の中にそれを指し示す記述は存在しないことから現在では否定され、(明確ではないが)神話の中では水の姿と動物(おそらくラクダかヤギ)の姿との間で揺れ動いている[7]。
ティアマトの死体は「天地創造」の材料として使うべくその亡骸を解体。二つに引き裂かれてそれぞれが天と地に、乳房は山に(そのそばに泉が作られ)、その眼からはチグリス川とユーフラテス川の二大河川が生じたとされる。こうして母なる神ティアマトは、世界の基となった。

マートとは・・・正義の女神。
古代エジプトの神。権利と真実と正義の女神。レーの娘で腹心の友。「マートの主人」と呼ばれるトートの妻。直立あるいは膝を曲げてすわり,頭にだ鳥の羽を載せている女の姿で表現される。https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88-136855#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
最古の時代から知られている古代エジプトの女神で、真実、法、権利、秩序をつかさどり、死者の裁判で重要な役割を果たした。このためギリシア人はマートをギリシアの女神テミスと同一視した。マートは太陽神ラーの娘とされ、トト(原語ではジェフティ)神の助言のもとに、プタハ神およびフヌム神とともに創造の作業を行った。マート神のシンボルは羽毛で、これは『死者の書』では、死者の心臓を量る秤(はかり)の一方にのせる分銅として描かれている。普通名詞としてのマートは古代エジプト人の道徳観を表しており、王たちはしばしば「マートにおいて生命あり」ということばを記し、マートを守ることを誓った。[矢島文夫]

天秤と正義・・・

天秤と正義の関わりは、あちこちの神話で見られます。
中でも興味深いのはエジプト神話。先日、「死者の書」展も行われていましたね。
「死と再生」の世界観をもっていた古代エジプト人は、死んだらまず、審判の場に行くと考えていました。
そこで待ち受けているのは、正義の女神マートと天秤。
死者は自らの心臓=ハートを差し出し、マートのもつ真実の羽と共に天秤に掛けるのです。
「? JUSTICE 正義」が天秤座を示します。http://official.l-blog.domani.shogakukan.co.jp/archives/6005101.html
? が天秤座を示します
11
「ローマ数字」で「11」を「XI」「xi」と書きます。

正義の女神
てんびん座の近くにあるおとめ座
ギリシャ神話では、アストレアは正義の女神として 描かれていて、てんびん座の近くにあるおとめ座は、アストレアの姿だとも言われてい ます。

二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不 均等分割したもの。二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった 28の星座(中国では星官・天官といった)のこと。中国の天文学・占星術で用いられた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%AE%BF

距星はてんびん座α星
二十八宿とは白道(天球上に月が描く軌道)を角宿を基準に西から東へ28に分割したもの。月が約27.32日で天球を一周するので、1日で1宿を通るように設定されたという。
中国では蒼竜(青竜)(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の4つの方角(四神)で7宿ごとにまとめられている。各宿には比較的明るい星が西端にあり、これを距星という。
蒼竜(青竜)
角宿 かくしゅく
和名は「すぼし」。東方の第一宿で青竜の角にあたる。距星はおとめ座α星(スピカ)。
亢宿 こうしゅく
和名は「あみぼし」「網星」。東方の第二宿で青竜の頸にあたる。おとめ座中の東部の4星をさす。距星はおとめ座κ星。
氐宿 ていしゅく
和名は「ともぼし」。東方の第三宿で青竜の胸及び前足にあたる。てんびん座中の4星をさす。距星はてんびん座α星。
房宿 ぼうしゅく
和名は「そいぼし」「添星」。東方の第四宿で青竜の腹にあたる。さそり座の頭部にある4星をさす。距星はさそり座π星。
心宿 しんしゅく
和名は「なかごぼし」「中子星」。東方の第五宿で青竜の心臓または腰にあたる。さそり座のアンタレスほか2星をさす。距星はさそり座σ星。
尾宿 びしゅく
和名は「あしたれぼし」「足垂星」。東方の第六宿で青竜の尾にあたる。さそり座の尾にあたる9星をさす。距星はさそり座μ1星。
箕宿 きしゅく
和名は「みぼし」。東方の第七宿で青竜の尾にあたる。いて座の4星をさす。距星はいて座γ星。

デメテル・ ペルセポネ・アストレア
エホバの仇・・・ 龍蛇 水神 豊穣神http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/4524
翼が生えた女神
背中に翼が生えた女神」をモチーフとし、その原形をギリシャ神話のデメテル・ ペルセポネ・アストレア
1.おとめ座。背中に翼の生えた女神をかたどった星座で、日本では春に見ることができる。一等星のスピカを持つ。
2.黄道十二宮(占星術)の6番目「処女宮」のこと。
モデルは豊穣の女神デメテルhttps://dic.pixiv.net/a/%E4%B9%99%E5%A5%B3%E5%BA%A7
「背中に翼が生えた女神」をモチーフとし、その原形をギリシャ神話のデメテル・ペルセポネ・アストレアのいずれかとし、右手に麦の穂を持つとされることからデメテルとする説が有力とされる。
 ただし、その名称を『乙女』とするため、正義の女神・アストレアの逸話にデメテルの逸話が混同されたという説も存在する。またギリシャ神話の女神の多くが、この星座にまつわるエピソードを抱えている。
 一等星のひとつスピカを擁しており、牡牛座のアルクトゥルス、獅子座のデネボラとを繋いで、春の大三角形を形成する。
デーメーテールhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB
デーメーテール(古希: ΔΗΜΗΤΗΡ, Δημήτηρ, Dēmētēr)は、ギリシア神話に登場する女神である。長母音を省略してデメテルとも表記される。豊穣神であり、穀物の栽培を人間に教えた神とされる。オリュンポス十二神の一柱。その名は古典ギリシア語で「母なる大地」を意味する。「掟をもたらす者」という意味の「デーメーテール・テスモポロス」という別名がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB

乙女座は、豊穣の女神デメテルの娘ペルセホネという説もありますが、この「乙女」の正体はhttp://hoshiyomi-uranai.club/196.html

乙巳(きのとみ) 長蛇または棒蛇といいます。
乙巳
乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿 を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は 体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。
厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。

乙巳は、木性の陰干である「乙(きのと)」と、夏の十二支である「巳(み)」が一つになって 成立している干支です。

乙巳の日は天一天上の13日目
乙巳の年. 1千年紀 ? 2 千年紀 ? 3千年紀 ? 45年 ? 105年 ? 165年 ? 225年 ? 285年 ? 345年 ? 405年 ? 465年 ? 525年 ? 585年 ? 645年 ?https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3

皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌足はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。
 

ミシャグチはユダヤとの関連があるという ことで調べ始めたのだが、

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月16日(木)19時00分16秒
返信・引用
  、「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」http://mabumaro.tumblr.com/post/93638664331/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%83%81%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E8%AA%9E%E3%81%A7%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2
柳田國男の「石神問答」、中沢新一の「精霊の王」でミシャグチのことを調べているのだが、柳田は民俗学の祖と言われるだけあって地名と神の関連に拘り、中沢は宗教学者の側面から天台のややこしい教条を持ちだして来る。誰にも解明できないとされているミシャグチを音韻で解明しようとした柳田のやり方は正しいと思うのだが、その彼をもってしても解決できなかった。中沢はその「精霊の王」で新しい解釈を目指している。ミシャグチは宗教学、民俗学、考古学という垣根を取り払って考えなければ解明できないだろう。
「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」

イサクの犠牲はイサクの燔祭(はんさい)とも呼ばれ、旧約聖書の物語の一つです。 ある 日、アブラハムは息子イサクを生贄にせよ、と神託を受けました。http://mementmori-art.com/archives/16528864.html
この写真は、「四隅袖付炉」というが、四隅にある丸い小さな石が男性の象徴である。
これが柱の原型である。「はし」とか「はしら」とは、古代の言葉で、異界のものを繋ぐといういみである。
石棒やその変形としての柱は、私たち人間と世界と天なる神の世界を繋ぐ・・・ まあ言うなれば、 繋(つなぎ)の神と言えるのではないか。
猿田彦はそういう繋(つなぎ)の神であろう。炉は、女性のあれがその象徴であるが、地の神(地母神)の象徴でもある。
炉と柱、つまり地母神と繋(つなぎ)の神の関係はまことに大事であって、七夕の再魔術化に当たっては、多分、そのことを哲学的にというかより深く考えねばならない筈だ。
野生の神々http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onnahohitu01.pdf#search=%27%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%83%81++%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AB%E8%AA%9E%27
シャグジは境界性の意味をおびた神々である。境界というもののはらむ霊威が、そのような名前で表現されたのである。
そして、この境界性を通じて、 芸能の徒の神である「宿神」は、全国に広く分布するミシャグチやシャグジとつながっている。
シャグジが道祖神などと重なり合った性格をおびているのもその ためで、境界の隙間からわきあがってくる災いや危険を、こちらの世界に入れまいとして境界を塞ぐ「ソコ」の神である道祖神も、もとはといえばシャグジと同じ境界神の一種だからなのである、と。

 古峯神社は関東では三峯神社と並び称される修験道 場である。日光を開いた勝道上人の修行の場としても有名であるが、その勝道上人が最初に修行したのは、実は、下野の薬師寺である。
下野の薬師寺は、当時、 九州の観音寺と奈良の東大寺と伍した全国スケールの戒壇院で、藤原氏との繋がりが極めて強い。その点で徳一との関係が気になる。
多分、私の直感では、行 基、良弁、勝道、徳一、空海、明恵は見えぬ糸で結ばれている。
東大寺と興福寺、或いは華厳宗と法相宗のくり出す糸である。
その糸は、華厳哲学と唯識論と 言って良いのかもしれないが、その奥には「スピリット」が・・・・きっと働いているに違いない。
 

明智光秀が隠れキリシタン 大名だったと考えることで・・

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月15日(水)22時58分32秒
返信・引用
  明智光秀が隠れキリシタン 大名だったと考えることで・・・http://okechi-kameoka.seesaa.net/article/396494555.html
信長がイエズス会を裏切った事実と、信長の焼死体が全く見つからなかったことを根拠に立論しているサイトと出会いました。
投稿者:荊の紀氏 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2825

そもそも安土城「天主閣(もとはこう 書いた)の天主とはゼウス、すなわちキリスト教の神を表していますhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1432342694?__ysp=5a6J5Zyf5Z%2BOICAgIOOCvOOCpuOCueaVmQ%3D%3D
信長はむしろルイス・フロイスら宣教師との付き合いや、他の方のおっしゃるようなセミナリオ開設など、キリスト教に好意的ところが大きかったようです。
しかし、後の秀吉や家康が方針転換して禁教や弾圧をしたのは、宣教師達が侵略の思想的尖兵であることを知り危惧した故の事なので、国家として当然の対応なのです。
彼らのお陰で日本はアステカ・インカのように私欲の為に大量殺戮する連中に蹂躙されたり、アフリカ・アジアの植民地のように収奪され続けるような事にならずに済んだので、現代日本の多くの方々にも影響を与えているのでしょう。
政治家や経営者にはクリスチャンも居ますが、そればかりではない事もよくよくお考え頂きたいと思います。

 フリーメイソン率いるキリスト教を通して、日本国家を転覆させるという企てがあった。
 それには皇室内の関係者にできるだけ多くのカトリック信者をつくり、皇后様を入信させ、宮中をキリスト教で乗っ取るという策謀であった。
キリシタン大名に売り飛ばされた50万人の娘たちhttp://mizu888.at.webry.info/201308/article_68.html
キリスト教の日本への渡来は、天文18年(1549年)にフランシスコ・デ・ザビエルによって始まったものである。彼らが何をしに来たかといえばその目的は、黄金の国ジパングをポルトガル王やローマ教皇の領土にするための調査であり、その尖兵として来日したのである。ザビエルはカトリック教会の母体であるローマ法王に属する一員であり、東方への渡来はジョアン3世の要請によるものであった。ザビエルはローマ法王パウロ3世から任命を受け、インドにおける法王の代理としての全権だけでなく、ポルトガルの持っていた東方植民地の官吏たちすべての上に、一切の権力を行使できる大きな権能を与えられて来たのであった。

彼はインドにおいて人々をキリスト教に改宗させるために宗教裁判を実施し、改宗を強制し、従わない者は惨殺・焚形(ふんけい)に処した。富める者の財産は強奪して修道会の手に没収し、それを用いて修道院や教会を建設した。その後1549年の夏、彼は日本の首都を目指してマラッカを出帆した。彼の後から、キリスト教の各宗派の宣教師たちが渡来した。いずれもその目的はザビエルと同じである。彼らが日本においてしたことを知らない人も多いが、いずれも日本の富と国土を狙っていたのである。日本人の多くの女性を奴隷として売り渡したり、一国の領主に金を貸して領地を担保にして取り上げたりした。
 歴史の教科書では単なる「島原の乱」でしかないが、これは彼らが島原の百姓たちを煽動して大乱を起こさせたのである。しかも原城に立てこもって死んだ人々の中には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招いた、ただの1人のイエズス会士も、1人のキリスト教宣教師の遺骸も見つからなかったのである。人々を煽るだけ煽り立てて死に至らしめ、自分たちはとっくに逃げ失せてしまったのである。
 これに対し豊臣・徳川はキリスト教の布教を禁圧し、宣教師たちを国外退去させる策に出た。これが国を預かるもののやるべき当然の施策である。キリスト教がヨーロッパにおいて宗教裁判で焚形、磔刑に処したように、徳川もまた同じことを行なったのである。それを「切支丹迫害」であるとか、「切支丹殉教」などと称するのは妥当ではないばかりか、それは日本人自らが口にするべき言葉ではない。
 彼らキリスト教宣教師たちは、日本の金山・銀山に狙いをつけており、そのための金の堀師たちを連れて来ていた。今日でも鉱山の鉱脈の露頭(ろとう)に、掘り刻まれた十字の印を見ることができる。そこには彼らが連れて来た異人の堀り師たちが潜んでおり、同時に隠れキリシタンたちの祈祷所としても用いられていた。
 いったいこの世に存在する宗教で、キリスト教ほど異端・異教の迫害・虐殺に力を入れてきた宗教が他にあるだろうか。自らを文明の宗教と言いながら、非人道的な行為の限りを尽くしてきている彼らこそが他を迫害しているのではないか。そして第三国の指示により姉崎正治が引き受けた任務が『切支丹迫害史』の編纂であった。その任務のための留学であり、そのための恩賞としての博士号の授与であった。
book 『ユダヤは日本に何をしたか』
 渡部悌治著 SEIKOSHOBO 抜粋
 

坂本龍馬 暗殺の黒幕はフリーメイソンだった!?

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月15日(水)22時28分8秒
返信・引用
  坂本竜馬って、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎が 薩摩藩・長州藩に政府を独占 させないために 竜馬の死後(明治時代)に、明治政府へ圧力して、 土佐藩出身者の ために、 英雄として仕立てた人物(実在)って本当?https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q106319670?__ysp=6Jap5pGp6JepICDjgYTjgo%2FjgZXjgY3jgoTjgZ%2Fjgo3jgYY%3D
岩崎弥太郎は坂本龍馬が創設した貿易会社「開成館(土佐商会)」をただ同然で貰い受けて引き継いでいます。
明治政府に入った後藤象二郎と組んで、西南戦争や台湾出兵で大儲けしたワルです。
龍馬の宣伝はしたと思います。

坂本竜馬の作った亀有社中の船舶を入手して三菱財閥が興ったと言うべきで岩崎弥太郎も土佐の出身です。

岩崎弥太郎は明治政府の岡持ち的存在で世渡り名人でしょう。
土地を安く手に入れ、伸し上がった男です。

延岡藩の記録の中に、三菱財閥の創立者、岩崎弥太郎が慶応3年に、長崎にて、 グラバー邸で有名なあのグラバーから 艦船を購入する契約書の写しが入っていたので ある。http://bakumatu0982.jp/10report/report10-yataro-131210.html
 今回発見した、延岡藩の資料は、岩崎弥太郎が、長崎に赴任した慶応3年の出来事であり、その年に、彼は、土佐藩の貿易の窓口として、軍艦、武器を買いあさっていたのである。幕末一級の記録である。
  グラバーは、明治になると、貸し金の回収ができず、破産してしまう。彼は、岩崎弥太郎に拾われて、以後、探鉱開発など三菱に貢献したのである。

慶応3年(1867年)に、後藤象二郎に引き上げにより、藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。この時期に、坂本竜馬と接触が始まったとされる。今回の報告は、この慶応3年の出来事であるが、もう翌年は、明治元年となる年である。
岩崎弥太郎は、この慶応3年に、晴れて、土佐藩の長崎先出張所の所長として、貿易の先頭に立ったのである。 その後、明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。翌、明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。このころ、土佐屋善兵衛を称している。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマーク「スリーダイヤ」を作ったことは有名である。

弥太郎は、ガンボード艦を洋銀7万5000枚で購入しているが、一体いくらなのか?単位は、「両」ではなく、「枚」であるのは?
幕末時には、まだ為替がしっかり決まってはいなかった。そこで、銀の相場で計算をしているのである。1分銀に含まれる銀量から、それは、自国貨幣のどれだけに対応するということで決まっていた。このころは、対アメリカで考えると、洋銀3枚が米1ドルであったようだ。それで、日本のお金を「枚」という単位で表していたのである。今回の取引では、7万5千枚であるから、米2万5千ドルということになる。現在の為替で計算すると、250万円ということになるが、時代が違うからそんなに安いわけはない。1両は4分であるから、当時の値段で、1万8750両と云うことになる。1両は、現在の価値で言うと、約10万円だから、軍艦1隻が19億円程度であったことが分かる。

この頃の弥太郎の日記によると、慶応3 年6 月3 日、「天気快晴…午後坂本竜馬来たりて酒を置く。従容(しょうよう)として心事を談じ、かねて余、素心(そしん)在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」とある。肝胆相照らすものがあったのであろう。
また、上洛する竜馬と象二郎を見送った彌太郎は日記にこう記した。「(慶応3 年6月)9 日、雨。…午後(象二郎と竜馬は)睡蓮(スイレン)船(のちの藩船夕顔)に乗る。商会の高橋が随行。…2 時、これ出帆なり。余および一同これを送る。余、不覚にも数行の涙を流す…」
この船の中で竜馬は、いわゆる『船中八策』をまとめた。「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出ずべきこと。上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機公論に決すべきこと…」で始まる、新しい国のグランド・デザインである。これは象二郎から容堂に建言され、容堂から徳川慶喜への建白書となって、歴史を大きく動かすことになる。
長崎商会の後事は彌太郎に託された。留守居役への郷士の起用ということは、象二郎の信頼の厚さを示している。

彌太郎は、竜馬が長崎を離れてからも、いろは丸事件(海援隊が、大洲藩から借用したいろは丸が、紀州藩の船と衝突した海難事故で、竜馬たちが、紀州藩から賠償金をせしめた事故)で、紀州藩と粘り強く交渉を続けて多大な賠償を取りつけるなど、引き続き海援隊の面倒をみた。
延岡藩の記録には、この「いろは丸」事件の記録も残っているのである。

グラバーとは
長崎市の観光として、真っ先の登るのは、港を眼下に見る山の上のグラバー邸である。その最初の持ち主こそ、今回の一方の張本人、グラバーである。彼は、1838年スコットランド生まれ、1911年に日本で没している(享年 73歳)。維新期の武器商人として活躍する。1865年(元治2年)には、大浦海岸において蒸気機関車を走らせた。1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。1868年(明治元年)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して高島炭鉱開発に着手し、さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産している。

グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて、後の麒麟ビールの基礎を作った。弥太郎とグラバーは、経営の相棒であり、生涯の友人となったのだろう

日本史の中でも大きな革命である明治維新。その立役者として有名な坂本龍馬の影に フリーメイソンがいたという都市伝説がある。http://subcultoka.jp/1491.html
19世紀末に日本で起こった大きな革命「明治維新」この維新の立役者となった「坂本龍馬」はあまりにも有名な人物です。
では彼の後ろにフリーメイソンの影があった事をご存知の方はどれだけいるでしょうか?

維新のヒーロー坂本龍馬に誰がカネを出したのか?海援隊という5~60人の働いてない男たち を養うカネはどこからでてきたのか?大量の武器(今の価値で50億円とも言われます※日本銀行高知支店のHPより)を買うカネはどこからでてきたのか?軍艦を買う金は?全国各地に出張しまくるカネは? 一体、誰が何の目的でそのカネをだしたのか?
日本中の刺客から狙われていた坂本龍馬、一体だれが殺したのか?なぜ犯人が分からなかったのか?
中国にアヘンをばらまき中毒者だらけにすることで、巨大な中国を骨抜きにし、侵略した英国。なぜ、同じ手を次の標的の日本に使わなかったのか?
現在も世界最大手のイギリス系金融グループの銀行が、明治維新前に既に横浜に支店を開設していたのはなぜか?
「攘夷!攘夷!」と叫び、外国人の追い出し活動に走り回った伊藤博文などの長州藩の志士。それがなぜ、明治維新前に突然、手のひらを返して敵国であるイギリスに留学したのか?
100万人の幕府軍は簡単に圧勝できたのに、なぜ突然、戦闘を放棄したのか?
新政府軍が旧幕府軍と戦った戊辰戦争。降参したらそこまで追い詰めなかったサムライ文化のはずが、会津・函館と最後まで徹底的に皆殺しにしたのはなぜか?

われわれが知っている明治維新はその時の御用学者が書いた歴史で、真実とは違うようです。

末に活躍した坂本龍馬がフリーメイソンだったという都市伝説は沢山あります。 ... http://ryoumahistory.com/ryoumauwasa/hurimeison.html
坂本龍馬といえば明治維新が起こる前の幕末に土佐藩を脱藩し、勝海舟と共に神戸海軍操練所を作ったり、貿易や輸送などを行う亀山社中を設立したり、その後は海援隊を設立し隊長を務めました。
薩摩・長州という尊王派の二大藩を結び付けたというのも大きな功績として語られています。
しかし、本当はこのすべてがフリーメイソンによって仕組まれていたことだという説があります。その話の発端となるのは、坂本龍馬と貿易を行い亀山社中に武器や弾薬を流していた長崎のトーマス・グラバーとの関わりです。

ジャーディン・マセソン商会はロスチャイルドが後ろに控えていました。ロスチャイルドはフリーメイソンの中でも真のフリーメイソンであり、同時にイルミナティと呼ばれる組織のトップでもあります。
そのロスチャイルドが後ろにあるのですから、フリーメイソンが明治維新に深く関係しており、ジャーディン・マセソン商会の代理人としてグラバーに武器や弾薬を扱わせ、当時武器や弾薬の購入を制限されていた大名たちと物々交換という形で取引させていた、そして坂本龍馬を操り、明治維新を引き起こしたという噂が流れるのは仕方がないのかもしれませんね。

坂本龍馬暗殺の黒幕は勝海舟?実はフリーメイソンと裏で結託! https://www.youtube.com/watch?v=1-8ppnHYwvI

... それをじっと見守る京都見廻組。 で、その龍馬の隠れ家 を探るべく弥太郎と接する見廻組。 弥太郎「新撰組…見廻組かえ?!http://susahadeth52623.hatenablog.com/entry/20101129/1291018536
最初のころ、弥太郎の貧乏描写に三菱からクレームが来たらしいけど、むしろこっちの方が三菱的に悪印象じゃないかなあ。後半「死の商人」宣言とかしてたし。
 あれ、最後だというのに後藤象二郎とか山内容堂とか勝海舟とか出てこないね。なんで?

海援隊で知り合ったとされる坂本龍馬と岩崎弥太郎ですが、二人は不仲であったという説もあります。
... 坂本龍馬 暗殺の黒幕は勝海舟だった!?http://search.yahoo.co.jp/r/FOR=tzf3knhV3igZ_r1xDXuWoHVPzVv4diSC.x2bvpiJQy2hsbUjWWREchAc3cRIhl9.duVVgektKv3in2rPUSICCEpoh3nYGS3En1eDmk9RJyYlr27VSr2F_NEqF_5FihKhwdY.C7oE1QNmW7ybBXsWDK.2gCmSWRdmoU7NSaNxQ5Hj.qV35HCl4RwU9Cho_SzTd9s9oKfLy2TEYXgnUpjzDK30JIrubiYmatJkUJQNr1jSl6Z4VpJEq4k-/_ylt=A2RitkKnPAxapmkAyCbPJ4pQ;_ylu=X3oDMTBtbmFianZ2BHBvcwMzBHNlYwNzcgRzbGsDdGl0bGU-/SIG=123eka7nq/EXP=1510852199/**http%3A//historivia.com/cat3/sakamoto-ryoma/3923/
弥太郎は龍馬亡き後、海運業に従事し、三菱商会を設立。そこでは海援隊出身の者にも徹底して商人としての教育を施したそうです。

西郷隆盛と勝海舟による江戸城無血開城 に関する会談が慶応4年(1868年)3月13日と14日の2回行なわれた。http://matiere.at.webry.info/200705/article_1.html
勝海舟は、薩摩とイギリスとの貿易関係を早くから掴んでおり、そこに目をつけて江戸城無血開城に向けて西郷攻略を考えた。3月9日、勝海舟は通訳アーネスト・サトウと会見し、イギリスの駐日特派全権大使パークスが「戦火の波及が貿易に及ぼす悪影響を恐れる」という信念を持っていることを知った。勝海舟はパークスと会談し内乱回避について話し合った。

西郷は龍馬暗殺の秘密を知っていたhttp://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/hitokuchi024.html
  龍馬暗殺後、西郷(隆盛)は、死にものぐるいで戦争を誘発しようと試みる。江戸で浪士たちに強盗や火つけを働かせたり、ありとあらゆる手段で幕府を挑発した。挑発は、江戸だけではなく、関東各地におよび、浪士隊を各地に派遣し、関東をかく乱する戦術に出た。
  けれども西郷は、江戸城開城をめぐって勝海舟と会談した結果、江戸城は無血開城された。その結果、西郷はあまりに幕府に寛容であると批判され、以後、戊辰戦争の指揮はすべて長州藩の大村益次郎がとることになる。
  西郷は明治新政府の招きを断って鹿児島に隠棲し、以後も新政府には背を向けて過ごす。西郷の軍事的使命は、江戸城の無血開城の時点で終わったかのようにみえる。つまり、無血開城させることで、西郷は傍流に追いやられたといえるのだが、その理由は何だったのか。西郷を傍流に追いつめ、城山で死に追いやった人物は、いったいだれなのか。

幕府と薩長の武力衝突で、いったい誰が得をするのか?
  久光よりもさらに強大な人物がいる。トーマス・ブレイク・グラバー。彼は久光だけでなく長州藩にも圧倒的な影響力をもつことができた。日本名、倉場宮三郎。
  このイギリスの武器商人は、薩摩藩と長州藩に武器弾薬を売りつけて巨万の富を築きあげた。薩摩藩の小松帯刀の紹介で龍馬と知り合ったグラバーは、龍馬の仲介でまず長州藩に7300挺の銃を売りつけ、薩長両藩に食いこんで、やがて明治維新の陰の大立て者にのしあがっていく。
  銃以外に艦船だけでも20隻、金額にして117万5千ドルを薩長両藩に売りつけている。それ以外にも、あらゆる武器に手を染めている。まさにヌレ手でアワの大もうけで、ブラバーが手にした利益は莫大な額にのぼったといえるだろう。薩摩藩の家老が、グラバーの暮しを、30万石の大名に匹敵するといったが、それは過小評価だといって差し支えない。
  武器商人として、20代半ばのグラバーが、幕末に、幕府を倒すという名目で薩長連合を成立させる陰の黒幕になったばかりか、島津久光といった大物藩主とも対等につき合っていたのである。それだけでなく、イギリスヘ留学した五代才助たちは、フランス人のモンブランと契約を結び、慶応2年のパリ万国博覧会に薩摩藩は参加している。
  薩摩藩は家老岩下方平をリーダーとする一行がフランスに渡り、万博に出品し、陳列場には「日本薩摩太守政府」の名を使って幕府に対抗している。薩摩藩は、この時点で、すでに幕府を崩壊させることができると読んでいたのであろう。
  薩摩藩は万博に参加しただけでなく、五代才助たちはイギリスの工場地帯を視察し、プラット紡績工場に紡績機械から工場の設計、技師の派遣を依頼した。その結果、慶応3年8月には鹿児島に日本初の紡績工場が誕生している。
  こういった斡旋をグラバー単独でできるわけがなく、その意味で彼の背後にはヨーロッパの巨大な組織があったとみるべきであろう。その組織は、19世紀のアジアに進出して、アジアを拠点に大量の武器を売り込み、巨額の利益をつかもうとしていたネットワークだといえる。武器商人による、巨大なネットワーク。
  グラバーは、そのネットワークの一員だったのだろうか。幕末に、幕府と薩長連合による武力衝突があれば、彼はさらに莫大な利益を得ることができたであろう。そして薩長両藩を中心にした新政府が成立すれば、これまでのつながりを土台にしてさらに有利なビジネスチャンスが生れる。
  にもかかわらず龍馬は江戸城を無血開城にして、江戸を戦火に巻きこむことはなく、戦闘は東北、北海道を舞台にした小規模なものになってしまった。武力討幕による大規模な国内戦争を想定したから、グラバーは薩長だけでなく、肥前、肥後、宇和島、土佐など西南各藩へ武器、弾薬、船舶を売りこんできたのだ。もし国内戦争がなく、それらの武器が使われなかったら、各藩への売り掛けが貸し倒れになってしまう。
  グラバーは、薩摩藩主島津久光に対して絶大な影響力をもっていた。
  一つの証言がある。イギリス公使館付き医師ウイリアム・ウイリスは、慶応2年(1866年)9月、パークス公使にしたがって鹿児島を訪れているが、そのときのようすを本国にあてた手紙のなかで、次のように報告している。

  薩摩侯はグラバー商会に対して多額の債務があるので、これを利用してグラバーはたえずなにかをしでかさずにはいられない性質の(パークス)公使と薩家侯との会談を斡旋したのである。私のみるかぎりでは、公使や提督らのなかでも、グラバーがとびぬけて一番重要な賓客であった。

  薩摩侯とは久光のことだが、武器購入でグラバーに多額の債務をかかえた久光は、イギリス公使のパークスよりも、グラバーをはるかに大事にしていたのである。そのグラバーの斡旋による島津=パークスの会談は、幕末の歴史を左右するほど重要な会談だったといわれる。
  グラバーは、明治になって長州の毛利家が編纂した幕末史『防長回天史』のなかで、編集人のインタビューに対して、「パークスは島津久光に会うまで幕府支持だったが、薩摩に行って久光に会ってから、180度変わった」と前置きして、次のように語っている。

  (パークスは私の肩を叩いて)「すまんすまん。これまで自分は愚かだった。きみのいうことを信じなかったが、自分が誤っていたといま目がさめた。はじめて日本の大名の考えかたがどんな方向に進んでいるかがわかった。いままで大名とイギリスの間に連絡がつかなかったのは、幕府側が壁をつくっていたのだ」と、しみじみ私にいって詫びたものです。
 つまりこのグラバーが日本のために一番役に立ったとおもうことは、私がハリー・パ-クスと薩摩、長州の間にあった壁をブチ壊してやったことです。これが私の一番の手柄だとおもっています。

  としてそのあと、グラバーはこういっている。

  私は日本の大名と何十万、何百万の取引きをしたことがある。しかし、ここで強くいっておきたいことは、ワイロは一銭も使ったことがない(中略)日本固有のサムライの心意気でやったということ、これだけは特筆大書してもらいたい。徳川幕府の叛逆人のなかでは、自分がもっとも大きい叛逆人だと私はおもっている。

  徳川幕府に対する最大の叛逆人とは多少の誇張とおもいこみはあるだろうが、グラバーは、徳川幕府を倒したのは、薩摩藩でもなければ長州藩でもなく、グラバー個人だと自負しているのである。もっと具体的にいえば、グラバーが討幕勢力に売りまくった武器弾薬、艦船が260年あまりつづいた幕府を滅亡させたと、分析していたのであろう。
  要するに武力討幕に徹底的にこだわり、薩摩、長州、土佐などの尻を叩きまくったのがグラバー自身だったのは事実である。その場合、グラバーがヨーロッパの最新式の武器、艦船を扱っていたことが最大の切り札になった。
  グラバーは血の気の多い男だったといわれる。グラバーの背後にひかえるヨーロッパの武器商人にとって、アヘン戦争終了後の市場は日本だ。日本に国内戦争が起るために必要な条件は、薩摩と長州両藩が反幕府のために結束することだ。そう考えたグラバーは、武器取引きをつうじて知り合った龍馬を利用することをおもいついた。土佐藩脱藩者の龍馬なら、藩の枠をのりこえて自由に動ける。
  グラバーは、おそらく龍馬を陰に陽に援助したにちがいない。薩長連合成立のため、龍馬は奔走した。ところが、その過程で龍馬は大きく成長して、個人の身で時代を転換させようという野心をもちはじめ、「船中八策」を練り、いきづまった政局を打開するためには大政奉還以外にないと主張しはじめる。
  グラバーにとって、龍馬はもはや邪魔者でしかなかった。ビジネスの障害物でもある。
  龍馬を、ただちに処分すべし。
  グラバーは、その意向を島津久光につたえた。久光も、グラバーと同じ立場にあった。
大量の武器を購入した薩摩藩は、国内戦争がなく、武器が使用されなければスクラップにせざるを得ない。そのうえ多額の債務だけが残ることになる。
  久光は、龍馬暗殺の指示を、ひそかに西郷隆盛に出したと推論できる。当時、鹿児島にもどっていた西郷は腹心の中村半次郎にその指示をつたえた。
  半次郎は、土佐藩に協力をもとめた。その頃、海援隊と陸援隊の対立から藩内が分裂し、深刻な対立抗争が生まれていたことを苦にがしくおもっていた山内容堂は、龍馬、中岡慎太郎の暗殺を認めた。
  薩摩と土佐藩連合による暗殺決行。暗殺は、新撰組によると擬装したが、それが破綻すると京都見廻組の今井信郎を犯人の1人にしたてあげ、見廻組の犯行にみせかけようとした。
  この工作にもっとも貢献したのは、土佐出身で司法大輔の佐々木高行であろう。維新後、参議兼工部卿、枢密顧問官などを歴任した佐々木は、今井信郎に禁固5年の判決をいい渡したが、実際には3年という軽いものだった。
  すべてを知る西郷は、その後、西南戦争で死亡した。
  グラバー商会は、明治3年(1870年)8月、倒産する。負債総額、約50万ドル。
  グラバーが懸念したとおり、戊辰戦争は大規模な国内衝突にならず、明治維新で各藩の財政事情は苦しくなり、大量に買いつけた武器の借金返済がほとんど不可能になり、おまけに戦争が短期間で終ったため、武器、艦船が大量に売れ残り、長崎の大浦倉庫に山積みされたためだった。
  けれども、グラバーが援助した志士たちは政府高官になっている。彼らの庇護のもとで、グラバーは明治44年に死去するまで、政財界に隠然たる影響力をもちつづけた。
 

北緯34度上に・・・ネクロポリス式の墓地は、実は日本にもある。

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月15日(水)12時06分58秒
返信・引用
  日本の葬法は本来二重葬的で、古く「もがり」などとよばれた仮葬と、本格的に遺骸を処置する本葬との二段階があった。埋め墓での死後の供養は仮葬での供養に相当し、忌みのかかった親族が穢れのある遺骸に近づいて供養を行った形をとどめている。埋め墓は、地上葬であった仮葬が本葬のような埋葬に変化したために生じたとも考えられる。詣り墓に移るとき、埋め墓の土をすこし持って行くという習俗が広くみられるのは、仮葬地から本葬地への遺骸の移動に対応している。
 詣り墓は墓石によって標示されることも多く、両墓制は、庶民の間に墓石が普及したとき、埋葬地とは別の場所に墓石を立てたために生じたとする見方もある。
両墓制https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E5%A2%93%E5%88%B6-150080#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
葬ることを古語でハフルというのは、捨てるという意味で、埋め墓は遺骸を放棄する施設の名残(なごり)とする考えもある。現に埋め墓を埋葬後まったく顧みないという例もあるが、数も少なく、これを重視することはできない。ただ埋め墓に捨てたとも考えられない。埋め墓から骨だけを収め、詣り墓に改葬する葬法もあり、さらには琉球(りゅうきゅう)諸島の洗骨葬の問題とも関連してくる。埋め墓は遺骸供養の信仰に、詣り墓は死者の霊魂祭祀(さいし)の信仰にかかわっている。埋め墓には、石を円形に並べて中央に石を一つ立てたものや、小さな丸石を円錐(えんすい)形に積み上げたものなど、古風な墓のしるしと思われる形態のものがある。[小島瓔]
『最上孝敬著『詣り墓』(1956・古今書院)』

両墓制は日本に古くより伝わる習俗であり,柳田國男はすでに昭和四年の「葬制の沿革について」の中で,両墓制の存在を指摘している.
両墓制集落における祭祀と埋葬の空間論https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00897/2010/pdf/A32D.pdf#search=%27%E4%B8%A1%E5%A2%93%E5%88%B6++%E8%B5%B7%E5%8E%9F%27
墓地は祭祀と埋葬という二つの役割を有している.
日本にはかつて,その二つの役割を分離させる両墓制と呼ばれる葬制が存在しており,現在でもごく一部の集落で現存が確認される.
しかし,現在では,戦後の急速な火葬化により,両墓制という葬法は急速に減少しており,現在多くの集落で両墓制から火葬の単墓制へと移行してしまった.
あと数年後には両墓制という習俗そのものが消滅してしまうだろう.その点からも両墓制に関する研究は今が最後の機会であるといえる.

辻井(1930) は伊賀地方の具体的な調査にもとづき両墓の空間論的理解を示している.その他,詣り墓(ハカバ,セキトウバ,セキトウバラなどと呼ばれる)が遺骨を埋葬しない場所で,かつこうした場所が聚落内や,聚落外でも遠くない場所に設けられることを指摘しており,民俗学の分野でおいてすら,両墓制が明確な研究課題となる以前から,こうした的確な把握をしている.
東西南北という,場所に依存しない自然方位に対して,カミ・シモという民俗方位は場所に依存する方位である.シュルツ(1973)17は,環境に依存する方位概念について,古代エジプト人が南北というよりも,上流・下流という言葉を用いて方向を把握していたことなどを述べながら,場所や環境によって規定される民俗方位が,自然方位に次ぐ二次的な概念ではなく,それと同等に重要で,特には自然方位にさえ優越するほどの重要な概念であることを指摘する.
東西南北という自然方位は,その中心を必要とするが,民俗方位は場所そのものに依存する方位であるため,明確な中心点を必要としない.その点も,この二つの概念が似て非なるものであることを裏付けるものであると考えられる.
これらの3種類の空間把握は,それぞれ「中心(centre)すなわち場所(place 近接関係),方向(direction)すなわち通路(path 連続関係),区域(area)すなわち領域(domain 閉合関係)の成立に依存して」18おり,集落空間の構成原理というだけでなく,そもそも空間把握の三つの原型であると考えられる.

九州には古代にハヤトとかクマソという名で呼ばれた、ヤマトと呼ぶ古代日本人と異る文化をもった人々があった。彼等はヤマトの葬制とは異る習俗をもち、両墓制を受入れなかった。
また東日本でも、古代にはエゾとかケヒトと呼ぶヤマトと異る文化をもつ人びとが居住し、この社会も両墓の葬制をとりいれなかったのであると。
これは地域社会固有の文化が伝播してハこ来る文化に抵抗し、受容しなかったという解釈のしかたである
両墓制の時空間的展開https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1639/1/sundaishigaku_93_183.pdf#search=%27%E4%B8%A1%E5%A2%93%E5%88%B6++%E8%B5%B7%E5%8E%9F%27
一〇世紀末の藤原道長のころには、死者に対しては霊魂を呼びもどす〈魂呼い〉が行われた。
それによって蘇生しないと死は確定し、病室から死体を移して火葬する。遺骨は埋めるか遺棄し、場合によっては水葬して処分した。
他方で霊を供養するため、堂もしくは寺を墓地の一部に建立する。これは死体の処理とは別の時と場所で行われた。つまりは一種の両墓制類似の方式である。
このようにして、後代になって仏教が強くに 関与してくると、供養塔の建立が墓碑と同じようにみなされることになったという

祖先祭祀を特に強調する天台・真言両宗が、その下層住民への侵透に力があったと考え、その一根撮として、両墓制の分布が上記1宗派の分布に型として一致することを挙げた。
田中久夫も上記諸研究を綜合補強し、民俗的資料をも援用してその発達過程をあとづけている。たとえば仏教の中でひじりも真言宗高野派では、その配下にある聖だちが、それまで聖地として凡下の人々の納骨ができなかった高野山上へ、分骨祭祀して法施を受けることを勧めて各地を旅するようになった。
これが遺体・遺骨の処理と供養との方式が拡大してゆく上で、多大の作用を及ぼしたという。

奈良盆地東西の山間では、サンマイに幼児.小児の死体を埋葬する特別の区域があって、コバカの名が与えられている。
これは、完全な供養塔を設けて仏教の指導に服した場合には、霊が西方浄土に往生して再びこの世に生れてくることができぬと教えられたからである。
般民衆は子供が多く生れることを希望し、死児の再生を願うので、コバカを別に設けて仏教による両墓設置形式に、完全には服従していないことを意味させたものと認められる。
このことは逆に、両墓制には仏教者の指導が強かったことを、暗に示す資料となるであろう。

関東の一部では、隣接した集落で一方は単墓、他は両墓と、寺の宗派にかかわらず、異なる墓制を行っている。
また、その近くでは、地域全体が宗派にかわらず両墓制をとっているという場合もある このようなムラは近畿では比較的稀なのか・その点を詳細に検討した報告はないようである。

小農が本百姓となってゆく過程と、各戸の経済的独立、さらに石材・石工の利用が容易となってゆく技術的発達の中で、個人石塔墓が招魂祭儀のために設けられるようになったと考える。
その好例として日野西は、京都府熊野郡久美浜町葛野の場合を挙げ、墓域内に何も無い墓から自然石一つ置いたもの、自然石に一字(智、賢)等法名を刻したもの、さらに石塔に法名を彫ったものと並列しているのは、その発達の順序を示すものであると指摘した。
これらのうち、子供には現在まで自然石もしくは地蔵が用いられているという。
これらは、本来石塔を建ててはならないのだという意識が、現代でも住民の間に保たれており、埋葬時には石を取除いておいたりすることに現れている。

山間で唯一の両墓制の古い型をもつ三原は、各家の夫婦墓がそれぞれ先祖とみなされている。
それより古いのが本家とみられる加憐氏の堂で、これが三原集落の総供養塔に相当するらしい。それ以外の家の招霊標識は自然石か樹木である。
ここでは埋葬地での供養あるいは拝礼は初七日で終り、その後は第二次のラントウバのみで行われる。
他の沿海集落では埋葬地は最も早いもので四十九日まで、遅い集落では十三回忌まで埋葬地での儀礼がある。
最後の年回忌、いわゆる弔あげが行われるのは、多く沿海集落にみられ、三十三回及至五十回が多い。
ところが三原は塔婆を立てるのみで弔上げという認識はない。むしろ埋葬地での行事が完了した点で成仏してしまったという感覚のようだと日野西は記している。
また、その様式からみて、三原集落の両墓制は近隣の沿海集落からの伝播によるものではなく、系統的に沿海部と異なる自然発生ではないかとも考えている。
しかしながら、丹後の山間に加悦郷が

存在するところを考慮すると、三原の旧家加悦氏は、この地方の両墓の習俗を携えてここに来住した移住者ではあるまいか。筆者としてはそう感じている。
同じように、沿海集落にみる別系の両墓制も、丹後方面から海上を往来した住民の伝播もしくは携行した可能性は大きい。
漁民が船を利用して、簡単に無主の海岸に移住した事例は、ことに日本海沿岸の海人について伝えられている。
竹野町が但馬国にありながら、隣国丹後の竹野郡と同じ地名を称し、その中心にある竹野・竹野浜のみが、その付近数キロメートル四方に、同一墓制の集落をもち、それを維持しているのも、そのような過去を語るものではあるまいか。
つまり三原の加悦氏が出身地を苗字にしたように、竹野町竹野も出身地を集落名とした共同社会だったのではなかろうか。

近畿・東海・関東を中心に分布する両墓制は、決して一斉不偏の濃密な存在形態を示すものではない。
ある時代に、経済的・社会的また政治的もしくは技術的などの理由から、利用されていなかった空間、たとえば水利の之しい台地、砂浜、氾濫原などに、集団的に移住し、もしくは戦乱を逃れて山中、海岸などにひそんだ家系が、その墓制、信仰などを保持して移動するという事実は、極めて多かったと考えて差支えない。
これら社会的に伝播しがたい文化が存する場合、直ちにその独立発生と結論づける必要は決してないのである。
これらの、社会構造にかかわる、隣接刺戟を容易に受容しがたい文化も、人の移動によって、線状や点状の分布を形成することは、中山正善が天理教の発達を例として論じたところであった。

北緯34度上にあります。・・・塩飽諸島・・・

塩飽諸島には全国的にも珍しい大規模な両墓制の風習が残っている。香川県の有形 民俗文化に指定されており遺体を埋葬する「埋め墓」と墓参のための「詣り墓(まいりは か)」が1人に1つずつ作られる。
塩飽諸島の佐柳島http://www.sankei.com/photo/story/news/150415/sty1504150023-n1.html
ねこの語源は古代エジプト26王朝のネコ1世だよ・・
猫だけじゃない・・・
すなわち1人の故人に対し2つの墓が存在するのだ。

塩飽(しわく)諸島とは、瀬戸内海に浮ぶ28の島々であり、香川県と岡山県の沖合いに挟まれる位置に存在しています。その塩飽の名は、「潮湧く」、「塩焼く」からきていると云われており、島々には古代の遺跡が点在し、
古くから海運の要所であることから、操船に長けた人々が住んだとされています。
戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康からその操船技術を認められ、様々な特権を許された人々が島を治めていましたが、時代は降り、それらの特権は失われてゆき、それに伴い主要産業は、海運から、漁業、船大工、採石、と多岐 多様に移り変わって来ました。
History 歴史と魅力http://489810.org/history

塩飽諸島で水夫に養成された住民の後裔は、1000年後に村上 水軍や「塩飽の水. 主」として歴史上高名をはせることになる。
 

(無題)

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月15日(水)12時03分14秒
返信・引用
  しわくしょとう【塩飽諸島】,
シワ
志和稲荷神社http://www.iwatetabi.jp/spot/detail.spn.php?spot_id=877
志和稲荷神社は、五穀豊穣、大漁、交通安全の守り神として多くの参拝者が訪れます。 境内には、樹齢1,000年といわれる杉の古木があり信仰を集めています。また隣接の 志和古稲荷神社は、アイオン台風で倒れた神木からキツネのミイラが発見され話題 ...
キツネのミイラ・・・

ミイラを作成
素晴らしいオリーブオイルが存在し、いにしえにはミイラを作成する場合にも使われ ていたというエジプトらしい史実も存在するほどの歴史があります。また、世界三大美人 に称されるクレオパトラも勿論、日常に使用してきたであろうことは想像に難くありません 。 エジプトでは「イシス神の贈り物」とも言われるオリーブオイル、私共のご紹介する エクストラバージンオリーブオイルはその名も「CLEOPATRA ... エクストラバージン オリーブオイル CLEOPATRA のふるさとはエジプトのSIWA OASIS(シワ・オアシス)に あります。
「イシス神の贈り物」http://www.taberu-japan.com/?mode=f9
シワ
シワ‐オアシスエジプト北西部のオアシス。リビア砂漠の北側、カッターラ低地https://dictionary.goo.ne.jp/jn/257782/meaning/m0u/

シワ語を話すベルベル人・・・

シワ語は、ベルベル語の一種で、東部ベルベル諸語に属す言語である。シーワ語、 シウィとも呼ばれる。エジプトのリビア国境のシワ・オアシスとガラ・オアシスに1万5千人 から3万人の話者がいるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AF%E8%AA%9E
他の大半のベルベル語にくらべて、エジプト・アラビア語の影響が著しい[3]。今でもシワ人の子供が母語としている。

シワ・オアシス (北緯29度11分 東経25度33分)
 

(無題)

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年11月15日(水)12時02分38秒
返信・引用
  緯度経度 39°42'29.00"N, 44°15'11.61"E. ... 大ピラミッドは 緯度30度でなく、緯度29 度58分22秒に建てなければ ... http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/mobile/index/detail/comm_id/2949/?fontsize=5&reverse=0&TEACUPRBBS=5b53cb06983710d96ce8158af3a2e0f3
弘法大師空海生誕の地である香川県善通寺市の緯度は北緯34度13分、入定されたと言われる終焉の地高野山奥の院の緯度も北緯34度13分、おまけに言うと、空海が遣唐使として訪れて遍照金剛の称号を授かった中国の長安(現在の陜西省西安)の緯度も北緯34度16分ということで、ほぼ同一緯度。なので、東西・横一直線に並びます。
日本の『ダ・ビンチ・コード』…空海ラインhttp://www.halex.co.jp/blog/ochi/20140825-4032.html
北極と南極を繋ぐ「ローズライン」と呼ばれる想像上の線が事件の謎を解く重大な鍵を握りました。
この北極と南極を南北に繋ぐ想像上の線、まぁ~言ってみれば“子午線”のことですが、それは理論上無数にあるわけで、航海をする者にとってみれば、それらの線のどれを経度の基準となる真のローズライン、つまり、経度ゼロの線とするかを決めることって船を現在位置を知るうえで極めて重要なことで、安心安全航海をする上では重大な意味を持っていました。

このローズライン、すなわちパリの天文台を通るフランスが主張していた本初子午線は、現行使われているイギリスのグリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線を基準にすると、東経2度20分14.03秒の線ということになります。

斑鳩の、その法隆寺のすぐ傍で見つかった、未盗掘だった藤ノ木古墳の被葬者が、ミイラにされて石の棺に埋葬されてあった、という調査結果は、既に、2007年に発表されてあることです。
この度、飛鳥の都塚古墳がピラミッド状だったというニュースを聞いて、藤ノ木古墳の被葬者のことを思い出し、にわかに、古代大和の王国とエジプトを結ぶイメージを抱くようになった人も、随分居るのではないだろうかと、私は思います。
ピラミッド、ミイラ、そして、エンタシス https://blogs.yahoo.co.jp/mizunoene17/45808641.html?__ysp=5YyX57ev77yT77yU5bqmIOODn%2BOCpOODqQ%3D%3D
当然の如く、ですが、推古天皇の摂政と、日本書紀に記されている聖徳太子が宮を置い た法隆寺も、北緯34度上にあります。

藤ノ木古墳の棺の中にはミイラが置かれてあった、飛鳥の都塚古墳の形はピラミッドだった、と聞いても、法隆寺が日本の、古代仏教興隆の基にある、という概念が変わることはありません。
現在、法隆寺東院伽藍と呼ばれているところに、エンタシスの柱の回廊はありますが、ギリシャに於いては、エンタシスの柱は、宮殿と呼ばれる建物にあります。
ですから、きっと、その柱は、聖徳太子の宮殿の柱なのだと思います。 法隆寺は、元は太子の住まいであった、ということは、周知ですが、あの柱が、太子の宮殿の柱だったとは、誰も、言いません。
一度焼失して、その後に再建されている、その時に、エンタシスの柱の回廊が出来た、という風に認識されています。
けれど、私は、太子が生まれる以前に、ミイラやピラミッドがつくられていた、ということが明らかにされて、それならば、エンタシスの柱も、初めは宮殿の柱として建てられた、という風に考えられると思うようになりました。

両墓制(遺体(遺骨)を埋葬する墓 と、墓参り用の遺体のない墓を作るしきたり)」では、このネクロポリス式墓地が ... ネクロポリスといえば、古代ギリシャ時代よりも更に古い、古代エジプトに遡るともい われる。
居住区域とは明確に分けられ、且つ一定の距離を保つ墓地「ネクロポリス」http://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=594
ネクロポリスとは、ギリシャ語で「死者の街」を意味する言葉である。この言葉が、ギリシャ語に由来する理由は、一つにはそもそもこのネクロポリス式墓地が、古代ギリシャで盛んに作られたからである。
世界大百科事典第2版によれば、古代ギリシャや、ローマ帝国などその文化的影響を受けた地域では、こうしたネクロポリスは、都市を取り囲む城壁の外部、特に街道沿いに作られたという。
こうしたネクロポリス式の墓地は、実は日本にもある。特に近世以降の近畿地方の村落部で、盛んであった「両墓制(遺体(遺骨)を埋葬する墓と、墓参り用の遺体のない墓を作るしきたり)」では、このネクロポリス式墓地が多く作られた。埋葬用の墓・墓参り用の墓共に、村と村外の境界に当たる区域に作られたケースが多い。
ネクロポリス式の墓地
 

レンタル掲示板
/353